伊佐沼・北田島の石仏

薬師神社 川越市伊佐沼577[地図]


伊佐沼の北西の排水路を越えてすぐ、右折して住宅の間の細い道に入ると、その先に薬師神社がある。元和9(1623)」創建、その葦ぶき屋根の拝殿は昭和34年に創建当時の姿を復元したものだという。境内右手には伊佐沼公民館が立っていた。


境内入口左側に同じようなサイズの3基の角柱型の石塔が並んでいる。左は純粋の角柱型石塔。右の二基は笠付きだったものと思われる。


左 観音菩薩塔 文化11(1814)塔の正面、梵字「サ」の下に「正觀世音菩薩」右側面に造立年月日。その下に観音講中。


左側面には「普門品一萬巻供養塔」と刻まれていた。普門品は観音経の別称である。

続いて地蔵菩薩塔 安永7(1778)石塔の正面に大きな字で力強く「地蔵尊」左側面に造立年月日。右側面に念佛講中と刻まれている。


右 敷石供養塔 寛政6(1794)塔の正面に「敷石供養塔」右側面に造立年月日。


左側面に御齋講中、萬人講、さらに當村中と刻まれていた。御齋講中は初見。読みは「おときこう」でいいのだろうか?どういった講なのだろう?

 

伊佐沼通り路傍 川越市伊佐沼132[地図]


伊佐沼通りは薬師神社の付近で右へ左へと緩やかにカーブして、そこからほぼまっすぐに西に向かう。700mほど先の十字路交差点の北東の角、住宅のブロック塀に囲まれて石塔が立っていた。白カビで真っ白になった石塔は、色もサイズもブロック塀と似ていて、景色の中に違和感なく溶け込み注意してみないと見逃してしまいそう。写真手前の道路が伊佐沼通り。東は伊佐沼方面、左は川越市内、川越市役所前に続く。写真左の北へ向かう道は伊佐沼と松郷の境界線となる道である。


馬頭観音塔 明治27(1894)西向きに立つ角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」下の台の正面に大きな字で伊佐沼と彫られていた。


塔の右側面には細かい字でびっしりと銘が刻まれているが、彫りが薄く、厚い白カビの中では読み取るのは難しい。台の右側面は無銘だった。


塔の左側面にはこの馬頭観音塔の由来が刻まれている。明治27年、日清戦争で徴用された畜馬の供養塔らしい。台の左側面は隙間が狭く写真は撮れないが、北 平方道と刻まれていた。

稲荷神社 川越市伊佐沼122南[地図]


上の馬頭観音塔の交差点の一つ手前のT字路交差点を右折して北へ進むと右手に稲荷神社がある。入口の右の隅に庚申塔が立っていた。


庚申塔 正徳3(1713)駒型の石塔の正面、梵字「ウン」の下 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。こちらも白カビが厚くこびりついている。


頭上にとぐろを巻いた蛇。像の右脇「奉供養庚申講中六人」左脇に造立年月日。


足の両脇に二鶏。邪鬼は踏まれながら頭をもたげ手足を折りまげて踏ん張る。三猿は両脇が内向き。塔の下部は土に深く埋もれていて、中央の見猿は上半身だけを地上に出していた。


青面金剛庚申塔の裏に、庚申塔の文字塔 文化12(1815)が東向きに立っていた。塔の上部は例の「くぼみ穴」が多く、原型をとどめない。


塔の右側面に造立年月日。左側面には伊佐沼村 講中 十人と刻まれていた。

 

阿弥陀堂墓地 川越市伊佐沼222[地図]


前回見た伊佐沼通り路傍の馬頭観音塔の交差点から北へ進むとその突き当りに阿弥陀堂の墓地がある。


入口から入ってすぐ左、六地蔵菩薩立像 安永2(1773)が北向きに立っていた。丸彫りの六体の地蔵像はほぼ同じサイズ、像容もよく似通っていて、蓮台、石塔も統一感がある。


石塔の正面に各地蔵の名前が刻まれていた。その側面には戒名、施主名などが見られるが、左から3番目の塔は左側面に万人講村中、右側面に當村女中 小石川女中四人と銘が刻まれている。小石川は江戸?その女中四人とはどう考えたらいいのだろう?


右から2番目の石塔の正面 地蔵名の右脇に「六地蔵建立」左脇に造立年月日。右端の石塔の左側面にも万人講村中と刻まれていた。


阿弥陀堂の左手前に五基の丸彫りの地蔵菩薩塔が東向きに並んでいる。


左端は墓石で天保7(1836)の紀年銘。続く二基は銘が見当たらず詳細は不明。三体とも首に補修跡が見られるが、補われたその首はそろってやけに小さい。


右から2番目 三界万霊塔 明和2(1765)角柱型の石塔の正面「三界萬霊」上に丸彫りの地蔵菩薩像が乗る。


丸彫りの地蔵菩薩立像は損傷が著しい。右半身は大きく欠落、像全体に剥落も多く、満身創痍といった感じである。


塔の右側面に造立年月日。続いて願主 肥前國 松林院 春海。生まれが肥前ということか?


左側面には大きな字で 伊佐沼村 施主 観音講中と刻まれていた。


右端 六十六部供養塔 明和3(1766)塔の上に地蔵菩薩坐像。こちらは錫杖の先は欠くものの、そのほかには大きな損傷もなくなんだかホッとしてしまう。石塔の正面「六十六部供養塔」上部両脇に天下泰平 國土安全。


塔の右側面に造立年月日。左側面に日本国中一切施入爲現當利益。続いて願主 當村とあり、一名の名前が刻まれていた。

 

JAいるま野南路傍 川越市北田島144南[地図]


県道51号線、一条院から西へ1kmほど進んだ先の信号交差点を右折すると、JAいるま野芳野支店のすぐ南の路傍に二基の石塔が並んでいた。



左 庚申塔 享保9(1724)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。像の様子はあいまいで、それなりに風化が進む。


青面金剛の顔は削られてしまったのか、のっぺらぼうだった。光背右脇「奉納庚申供養」左脇に造立年月日。


足元にうずくまる邪鬼の顔もはっきりしない。その両脇は二鶏か?正面向きの三猿の下の部分、右端から武刕入間郡 北田嶋村とあり、続いて8名の名前が刻まれていた。


右 馬頭観音塔 嘉永2(1849)角柱型の石塔の正面 かなり剥落が進んでいるが、上部白カビの中に「馬」と見え、馬頭観音塔と思われる。台の正面には「北田嶋村中」


塔の右側面に造立年月日。左側面 白カビが厚く銘は読みにくいが、「萬人講中」ではないだろうか。


台の右側面は無銘。左側面 願主1名、奥に世話人8名の名前が刻まれていた。

JA北路傍 川越市北田島123向[地図]


JAいるま野から北へ100mほど、芳野市民センターの少し手前、道路右側の路傍に石塔が立っていた。


馬鳴菩薩塔 大正5(1916)角柱型の石塔の正面「馬鳴菩薩」こちらは初見。馬頭観音菩薩の異名かと思ったら、どうも違うようだ。調べてみると「めみょうぼさつ」と読み、中国の民間信仰に由来するもので、貧しい人々に衣服を施す菩薩、また養蚕守護の神様(蚕玉神)ともいわれるらしい。塔の右側面には「萬人講」と刻まれている。


塔の左側面に造立年月日。さらに施主 北田嶋村とあり、個人名が刻まれていた。

 

妙観院閻魔堂 川越市北田島327東[地図]


JAいるま野芳野支店から北へ向かい、芳野市民センターを過ぎてさらに進むと、右手奥に厳島神社と妙観院閻魔堂が見えてくる。入口から正面に閻魔堂。左脇に六地蔵の小堂。奥に墓地がひろがる。同じ敷地の右手前には北田島自治会センターが立っていた。


小堂の中の六地蔵菩薩立像 寛政8(1796)像のサイズはやや不ぞろいにも見えるが、蓮台以下の様子は統一感がある。六基の石塔の正面にはぞれぞれの地蔵名が刻まれていた。


左から3番目の石塔の右側面に「六地蔵尊再建立」続いて寛政8年の紀年銘。左端に當村中と刻まれている。再建されたものとなるとその創建は?


左端の石塔の右側面に宝暦77(1757)年の紀年銘があった。その横に北田嶋村。現在の六地蔵は創建から40年後に再建されたものということになる。


閻魔堂の右脇、裏の墓地の入口付近に多くの石塔が集められていて、その中心に大きな丸彫りの地蔵像が立っていた。


地蔵菩薩立像 享保11(1726)白カビが多く首に補修跡が見られるが、大きな欠損はなく堂々としている。


台の正面に「奉納大乗妙典 六十六部 日本廻國」両脇に造立年月日が刻まれていた。

旧円満寺跡 川越市北田島329[地図]


閻魔堂のすぐ東の路地を北に入ると左側に小堂が立っている。この先がお寺があった場所らしい。


小堂の中にはほぼ同じような大きさの三基の石塔が並んでいた。


左 観音菩薩坐像 天保(1833)塔の正面は風化の為だろうか、まったく銘が見当たらない。塔の左側面に造立年月日。右側面に施主とあり個人名が刻まれている。


中央 如意輪観音坐像 寛政5(1793)半跏坐像で頬に右手を当てた形は如意輪観音そのものだが、頭部は地蔵菩薩のような円頂で、本来頭上にあるはずの化仏は欠けてしまったのだろうか。


石塔の正面に大きく「念佛講中」右側面に造立年月日。左側面には施主 北田嶋村と刻まれていた。


右 地蔵菩薩立像 天明3(1783)こちらの地蔵像も白カビが多く、真ん丸な頭部は目鼻立ちもはっきりしない。石塔の正面に三つの戒名が刻まれている。


塔の右側面は無銘。左側面に造立年月日。続いて當村 圓滿寺龍乘房□□と刻まれていた。

 

観音堂 川越市北田島27北[地図]


前回見た妙観院閻魔堂、北田嶋自治会館のあたりからさらに北へ200mほど、左折した先に観音堂の墓地があった。お堂の裏が墓地。入口からお堂までは殺伐とした風景で、参道の左右に石塔が立ち並んでいる。


参道右側に7基の石塔が並ぶが、その中に2基の講中仏があった。


右端 如意輪観音坐像 宝暦14(1764)二段の台の上に角柱型の石塔、その上に分厚い蓮台に片膝を立てて座る丸彫り二臂の如意輪観音像。


石塔の正面 梵字「キリーク」の下に「三界萬霊」両脇に造立年月日。塔の左側面には諸々志中と刻まれている。


右側面には大きな字で施主 村中と刻まれていた。


左から2番目 馬頭観音立像 安永8(1779)駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音像を浮き彫り。


頭上の馬頭はくっきり。顔は三面ともはっきりしないが、これは風化の為ではなくて人為的なものだろうか。


塔の右側面に造立年月日。


左側面に 施主 村々。続いて北田嶋村 上野氏。さらに願主 如圓造之と刻まれている。


参道の左側に丸彫りの地蔵菩薩立像 安永5(1776)四角い台の上に角柱型の石塔。その上に敷茄子、蓮台の上にたたずむ地蔵菩薩像。白カビは多いものの欠損なく像全体のバランスはよい。


角柱型の石塔の正面「三界萬霊」右側面に造立年月日。左側面には武刕入間郡 北田嶋村 施主 村中と刻まれていた。