伊佐沼東T字路 川越市鴨田1133西[地図]
伊佐沼の東のT字路の北東の角に三基の石仏が並んでいた。このT字路から東へ向かうと川越運動公園の前の信号交差点にいたる。写真左の道は伊佐沼の南から沼の東をまっすぐ北へ向かう道で、県道51号線の一条院へ、またすぐ先の信号交差点を左折すると伊佐沼の北を通る「伊佐沼通り」にでる。さて、三基の石塔を見てみよう。
左 庚申塔 延享2(1745)大きな駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。
像の周りには白カビが多いが、銘はしっかりと残っていた。像の右脇「奉供養庚申待塔」左脇に造立年月日。青面金剛のもものあたり、両脇に武州入間郡
鴨田村と刻まれている。
青面金剛の足の両脇に二鶏を線刻。足元には邪鬼がへたり込んでいる。その下には正面向きダイヤモンド型の三猿。三猿の下の部分、右のほうに妙順内路、左のほうに女中拾三人と刻まれていた。これだけの本格的な庚申塔を13人の女性だけの講で造立したということか、ちょっと信じられない。「内路」というのは鴨田の他の石塔でも見かけたが、このあたりの字名か、また妙順内路というのはここでしか見ないが、こちらは小字だろうか?
中央 地蔵菩薩立像
享保10(1725)堂々たる大型の丸彫り延命地蔵である。
はっきりした目鼻立ちは気品がある。錫杖、宝珠は健在。首には補修の跡が残っていた。
重厚な蓮台の下、丸みを帯びた四角い形の敷茄子。右側面に造立年月日。正面は線香立ての陰になって真ん中は写真が撮れないが、5行4文字の偈文「地蔵菩薩
毎日晨朝 入於諸定 遊化六道 抜苦與樂」と刻まれていた。
左側面 手前に 鴨田村 明順。明順=妙順か?奥のほうには
女中廿一人、その横に念佛供養所と刻まれている。
右 如意輪観音菩薩坐像
文化元年(1804)四角い台の上に反花付きの台を重ね、その上に石塔、さらに蓮台に座る丸彫り二臂の如意輪観音菩薩。如意輪観音はやや斜めを向いている。
石塔の正面を彫りくぼめた中、如意輪観音を表す梵字「キリーク」の下「十三佛供養塔」
塔の右側面に造立年月日。左側面 講中とあり、その下に妙順内路
婦人十五人、さらにその横に寄進講中下内路中と刻まれていた。
大下共同墓地 川越市鴨田1787西[地図]
川越運動公園の入り口前の信号交差点から100mほど西を右折して道なりに進んだ先、右手に墓地があった。一条院末寺神光寺の管理していた墓地だったらしい。すぐ東隣には大下公民館がある。墓地に入って左手のブロック塀の前に七基の石塔が並んでいた。
手前の四基は丸彫りの地蔵菩薩像。左端 地蔵菩薩坐像
享保18(1733)四角い台の上に角柱型の石塔、その上に蓮台に座る丸彫りの地蔵菩薩坐像。像のあちこちにまるで雪が積もったように白カビがこびりついていた。
石塔の正面中央「大乗妙典六十六部供養塔」両脇に天下泰平・國土安全。塔の右側面に造立年月日。左側面
武州入間郡鴨田村とあり、願主 誓運と刻まれている。
2番目 地蔵菩薩立像
安政2(1855)四角い台の上、角柱型の石塔、その上に敷茄子、蓮台、丸彫りの地蔵菩薩立像。
角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「アーンク」の下「權律師謙盛塔」両脇に造立年月日。僧の墓石であるが、下の台の正面に「筆子中」と刻まれていて、こちらは「筆子塔」寺子屋などで学んだ生徒たちが費用を出し合ってお世話になった師匠の菩提を弔うために建立した供養塔である。お地蔵様のお顔は、亡くなった師匠をモデルとしたのだろうか、どことなく人間臭い。
塔の右側面は故人について、生まれは荏原三田、俗名は松田氏などと記されている。左側面には世話人一名の名前が刻まれていた。
3番目 地蔵菩薩立像
安永5(1776)白カビも多く風化が進み、錫杖、宝珠は欠けている。
石塔の正面
右から下鴨田村念佛講中、その横に「奉納一切供養」続いて願主二名だが、脇に明和5年の紀年銘、こちらは願主の命日だろうか?塔の右側面は無銘、左側面に安永五 丙申 三月吉日とあり、こちらが造立年月日になる。
4番目 地蔵菩薩立像
享保4(1719)ここに並ぶ四基の地蔵菩薩像塔の中では一番古い。像の頭部、両腕の衣装のすそ、蓮台から下の石塔部に白カビが多い。頭部は補修跡もあり、風化のために顔がはっきりしないが、錫杖・宝珠はしっかり残っていた。
丸みを帯びた石塔の正面を彫りくぼめた中、右から造立年月日。その横に「日参成就供養所」続いて「奉造立地蔵菩薩」左のほうの二行、有無兩縁、乃至法界、下のほうには
平等、利益。右枠に武州入間郡鴨田村、左枠に願主一名の名前が刻まれている。
その奥に小型の宝篋印塔。小型ながらも発達した相輪を持つ。外反した隅飾は江戸時代初期の特徴。白カビが厚く、銘は読み取れなかった。
続いて馬頭観音塔 寛政10(1798)角柱型の石塔の正面
舟形光背の形に彫りくぼめた中に六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。蓮台、敷茄子、六角形の台も一石から掘り出すという凝った構造。
白カビは多いものの頭上の馬頭ははっきり。忿怒相の馬頭観音はふっくらと馬口印を結ぶ。
塔の右側面に造立年月日。左側面には施主當所とあり、内路中 秩父講中
十五人と刻まれていた。
一番奥に聖観音菩薩坐像
元禄3(1690)唐破風笠付きの角柱型の石塔の前に聖観音菩薩坐像を浮き彫り。こちらも全体に白カビが多い。
頭上には阿弥陀如来の化仏をいただき、左手に蓮の花、右手に持つのは何だろう?顔は摩耗してはっきりしない。像の周りに細かい文字で銘が刻まれている。その一部は読めるもののほぼ意味不明。願文だろうと思うのだが、自信はない。
長い時間をかけて、やっと意味のありそうな部分を見つけた。像の左脇の3行のうち、一番左、「右者日待爲供養奉造立観音像一躰施主」日待供養のために造立された石塔なのだろう。
塔の右側面に造立年月日。ご覧の通りカビが厚くこびりつき難読。ここもかなり時間をかけて最初に「二月吉日」を見つけた。その上を眺めていると「三」が見え、その上に「元」がある。また「三」の下に干支があるかと見ていたら「午」とあった。帰宅して確認すると元禄3年の干支は「庚午」であり、以上から造立年は元禄3年で間違いなさそうだ。
左側面も白カビのために一部しか読めない。手前は一部読めるが意味不明。奥には武州入間郡鴨田村 惣施主
敬白と刻まれていた。
大下公民館北東路傍 川越市鴨田1584北東[地図]
大下公民館のすぐ東、細い道路の交差点を左折して北へ進むと、右側に石祠と石塔が並んでいた。
庚申塔 元禄11(1689)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。白カビも多く、銘は読みにくい。像の右脇「奉拝庚申子孫繁昌攸敬白」と刻まれているのだが、「繁」と「昌」の間がかなり離れていて、初めて見たときはうまく読めなかった。足の両脇に彫られた二鶏、右の雄鶏の尾が大きく、銘が分断されたようだ。像の左脇には造立年月日が刻まれている。
青面金剛の足元は磐座で、元禄期の庚申塔、やはり邪鬼がいない。その下に愛らしい三猿。三猿の左脇、武刕入□□郡鴨田村。ここは入間之郡と思ったのだが、どうしてもそうは読めない。正解は?三猿の下の部分、右端に施主とあり十名の名前が刻まれていた。
一条院 川越市鴨田665[地図]
伊佐沼の北、県道51号線の信号のあたりに天台宗の古刹
一条院がある。江戸時代には歴代住職は上野寛永寺で修行を積んだ高僧が務めたという格式の高いお寺で、関東の天台宗の僧の学問・修行の中心だったという。入口正面に鐘楼門、その左に長屋門。入口左脇に大きな地蔵塔が立っていた。
大きな基壇の上に丸彫りの地蔵菩薩坐像
文政5(1822)厚い敷茄子・蓮台の上、輪光背を負った地蔵菩薩坐像。大きな欠損はなく、カビも少ない。敷茄子の下の台は三段。一番上の台は反花付きで、その正面に凝った彫り物が施されていた。
残りの三面、左右側面に願文。裏面に造立年月日。その横に當寺二十二世 法印権大僧都 尭運
欽建之と刻まれている。
地蔵塔の右脇に二基の石塔が北向きに並んでいた。
左 馬頭観音塔 文化2(1805)角柱型の石塔の正面
三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。蓮台、敷茄子、反花付きの六角形の台まで、彫りは細かく技巧的。忿怒相の三面、頭上の馬頭、ふっくらとした馬口印、いずれもきれいに残っている。
塔の右側面に造立年月日。左側面に鴨田村 願主
世話人とあり、下のほうに浄閑、その横に當内路中。さらに萬人講中と刻まれていた。
右 庚申塔 貞享2(1685)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。
細かく白カビがこびりついていて、全体にぼんやりとしている。足元の邪鬼は磐座の上にうずくまり、手も足も出ないという風情で背中を踏まれていた。
邪鬼の磐座の下に三猿。三猿の下に六名の名前が刻まれている。
側面は黒ずんでいる中に彫りが薄く、銘などの確認が難しい。右側面に造立年月日。左側面には武州入間郡鴨田村。よく見るとその下のほうに大きな牝鶏が線刻されていた。あわてて右側面を再度確認、こちらには雄鶏が線刻されている。両側面を合わせて二鶏が揃う。
入口右、大地蔵塔に向かい合うように大乗妙典供養塔
宝暦11(1761)こちらも三段の厚い台の上に敷茄子、蓮台と重ね、その上に角柱型の石塔。全高3m近い堂々たる供養塔である。
石塔の正面上部に、左足を立てて座る地蔵菩薩坐像を浮き彫り。その下に「奉納大乗妙典日本回國」両脇に天下和順・日月清明。
塔の右側面に星光山 善光寺。入口の門柱にも「星光山
新善光寺」の看板が掛けられていて、調べてみると「星光山 新善光寺一条法華経院」が正式名称という。
塔の左側面 日本國中大小神祇 法界萬霊一切含識。
塔の裏面 右に造立年月日。その横に武刕入間郡鴨田村一条院第十九世
豎者法印俊慧代。「豎者」というのは僧侶の学問、修行の指導をする「講師」厚い信仰と高い学識を併せ持つ特別な高僧のことらしい。最後に願主名が刻まれていた。
反花の付いた一番上の台、正面をのぞく三面に銘が刻まれているが、こちらの銘は塔のほうと違い線が細い。重要な銘は裏面。中央に文政6(1823)の紀年銘。続いて立替修補施主
尭□とある。上の供養塔が宝暦11年の造立、台を補修し立て替えたのが文政6年ということだろう。左に當山現住 尭運代。これは入口左の地蔵塔に刻まれていた22世ご住職の名前と同じ、地蔵塔のほうが文政5年、こちらの立て替え補修はその1年後である。右のほうに當村
長沢喜八、庚申待講中九人と刻まれていた。その補修時に協力したものと思われる。なお、「長沢氏」は鴨田、石田本郷の石仏で施主の中にその名前を頻繁に見ることができる。当地でポピュラーな名前で、また有力な家なのだろう。
台の左側面 右端から講中
六十五村、川越惣町中、他村惣柦中、さらに江戸、江戸銀町から3名。
右側面 右端に當村とあり、合わせて5人、左端に十三佛
講中四人と刻まれていた。本当に多くの人たちがこの供養塔の再建に協力したものと思われる。それだけ一条院というお寺の力がおおきかったということだろう。
入口から入って左側、長屋門の左に「中内路集会所」が立っていた。そのあたりから奥は墓地になっていて、かなり古い石仏が見られる。集会所の手前左側に六地蔵の小堂、その左脇に六基の石仏が並んでいた。
左から見てみよう。1番目 敷石供養塔 文化9(1812)角柱型の石塔の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。風化が進み、白カビに覆われた頭部はまるで鉄仮面のようだ。
角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「敷石供養塔」両脇に造立年月日。塔の右側面上部 星光山廿一世 豎者法印□□。下部には願主 浄明、さらに同當内路中。左側面に萬人講中、當村中と刻まれていた。
2番目 念仏供養塔 天明8(1788)写真では下部は見えないが、角柱型の石塔の上、蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。やはり白カビが多く、お地蔵様の顔はつぶされていた。首のあたりにはセメントで補修した跡が残っている。
石塔の正面、中央に「奉唱名念佛百五十萬遍供養塔」その右脇に戒名。左脇に法界萬霊。塔の右側面に同行□□、左側面に造立年月日。さらに施主一名の名前が刻まれていた。
3番目 宝篋印塔
宝暦2(1752)基礎正面に「大乗妙典一千部供養」右側面に造立年月日。
4番目 日待供養塔
正徳3(1713)丸みを帯びた四角い台の上、蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。左手の宝珠は溶けだしている。
台の左側面、右に造立年月日。中央に「日待講中」左に武刕入間郡鴨田村。他の面には銘は見当たらなかった。
5番目 念仏供養塔
宝暦10(1760)こちらも丸みを帯びた四角い台の上、蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。白カビが多く、お地蔵様の顔はのっぺらぼうだ。
台の正面を彫りくぼめた中「唱名念佛百萬遍供養」右側面に造立年月日。その脇に智屋常三?左側面手前に法界萬霊。続いてふたつの戒名。さらに施主當村とあり、一名の名前が刻まれていた。
右端 大乗妙典回国供養塔
文化7(1810)角柱型の石塔の上に左足を立てた地蔵菩薩坐像。やはり白カビが多く、風化が進む。錫杖の先の部分が欠けていた。
石塔の正面中央「奉納大乗妙典日本廻国」両脇に天下和順・日月清明。右側面に造立年月日。左側面には鴨田村
願主とあり、二名の名前が刻まれている。
小堂の中
六地蔵菩薩立像。像のサイズがちょっと不ぞろいに見えるのは何体かは頭部を補修されたためではないだろうか。像自体はほぼ同じ印象、蓮台以下もよくそろっている。
敷茄子、石塔の様子も統一されていて、石塔の正面に各地蔵の名前、右側面に大乗妙典、左側面に百部供養。残念ながら紀年銘が見当たらない。隙間が狭く確認できないが、もしかしたら塔の裏面にあるのかもしれない。
六地蔵の小堂の裏のあたりに、念仏供養塔
享保19(1733)三段の台の上、丸みを帯びた石塔の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。宝珠を欠き白カビにまみれてはいるが、その尊顔は穏やかで温かい。
石塔の正面中央「念佛供養塔」右脇に造立年月日。左脇に鴨田村施主五十二人と刻まれていた。
塔の右側面は無銘。左側面に市場洞、鍛冶屋□洞、新掘?洞と見えるが、「洞」が何か?こちらはちょっとわからない。
鐘楼門の正面には大きな本堂が立っている。本堂の手前を右に曲がると、東側一帯は広い墓地になっていた。入口左の「中内路集会所」奥の墓地に比べるとこちらはだいぶ新しく、きれいに整備された墓地の中には古い石仏はほとんど見られない。その入り口付近、本堂のすぐ右脇、水桶置き場の横に二基の石塔が並んでいた。
右 敷石供養塔
安永9(1780)四角い台の上、上部に反花の付いた角柱型の石塔、その上に敷茄子・蓮台に二臂の丸彫りの如意輪観音菩薩坐像。石塔部に比べると像は白カビも少なく、比較的美しい。
石塔の正面
梵字「キリーク」の下に「敷石供養塔」両脇に造立年月日が刻まれている。
塔の右側面は細かい字で長い銘文が刻まれているがカビも多く難読。左側面中央に「三界萬霊」右脇に施主
萬人講中。左脇に 星光山一条院十九世 豎者法印俊慧代と刻まれていた。
左 宝篋印塔
享保19(1734)塔身と基礎の間にも笠を持つ構造は珍しい。
塔身の四面には梵字が刻まれている。基礎の銘は彫りが浅く近づかないと確認が難しい。正面に星光山一条教院。右側面に造立年月日。左側面には讀誦結衆とあり、十名の僧の名前が刻まれていた。
基礎の裏面にはこの宝篋印塔の由来。その全体を解読することはできないが、大筋としては享保18年、77歳で亡くなった一条院十六世住職の遺言で法華経一千部を讀誦、宝篋印塔を造立したということだと思う。最後は「略記始末」としめくられている。
本堂の右脇から墓地の壁に沿って奥へ進むと、境内の北のはずれの竹やぶの中に二基の石塔が立っていた。
左 多聞天塔 天保5(1834)四角い台の上、相輪付きの笠を載せた円柱型の石塔の正面
梵字「ベイ」「マ」「キャ」の下に「多聞天」
塔の裏に造立年月日。続けて當山廿二世 法印尭運
造立之と刻まれている。
右 題目塔
享保11(1726)二段の台の上、蓮台に円柱型の石塔。こちらも相輪を載せた笠を持つ。正面を彫りくぼめた中に「南無妙法蓮華経」すっきりと美しい。
塔の左側面から時計回りに長い銘文が刻まれていた。古い石塔ではあるが文字ははっきり読みやすい。
右側面、銘文の最後の部分に造立年月日。さらに星光山一条教院住持沙門玄道謹識。この長い銘文は当時の一条院のご住職によって書かれたもののようだ。
工業団地南路傍 川越市鴨田2719付近[地図]
一条院の東にある埼玉医大前の信号交差点を北へ向かい、次の信号交差点を右折、工業団地の南を走る広い道路に出る手前、左側の路傍に石塔が立っていた。写真左上に写っている建物の住所が上の[地図]の住所になる。
寒念仏供養塔
明和2(1765)舟形光背に浮き彫りされた主尊は三面六臂の馬頭観音菩薩。上左手に未敷蓮華、下左手には数珠を持つ。光背右脇に「奉建立寒念佛供養」左脇に造立年月日。足元の部分、右に施主、中央に當村、左の銘は下部が土に埋もれうまく読めなかったが、どうやら老袋のようだ。もしかすると中央が當村中、左は老袋村か?
正面の顔は削られたものか、様子がはっきりしなかったが、横から見るとどうやら慈悲相のようだ。頭上の馬頭は摩耗していて、こぶのように見える。
市場集会所墓地 川越市鴨田410[地図]
埼玉医大前の信号交差点から北へ向かい、次の交差点を直進、さらに200mほど進むと、交差点の北西の角に市場集会所が立っていた。その周りは墓地になっていて、その南の入口両脇に石仏が集められている。
入口右、細長い台の上に地蔵菩薩立像と如意輪観音坐像が並んでいた。
右 庚申塔
宝暦9(1759)舟形光背に二臂の如意輪観音菩薩を浮き彫り。白カビが多く、光背の一部は破損している。右脇に大きな字で「庚申供養塔」左脇に造立年月日。その下に鴨田村市場講中。この石塔が敷茄子に乗っているのはちょっと不思議な感じがする。敷茄子は蓮台と一体で、その蓮台の上に丸彫り像というのが一般的だろう。
敷茄子はカビが厚く文字が読みにくかったがなんとか確認できた。右から正徳四、二月吉日、念佛講(中)、拾□人、武刕入間、鴨田村。塔のほうには宝暦9年の紀年銘があり、やはりこれは本来の組み合わせではないようだ。
左
地蔵菩薩立像。白カビにまみれ、宝珠を欠くこのお地蔵様、足元を見ると、その立ち方はひどく不自然。本来あるはずの蓮台がない。もしかしたら、隣の如意輪観音庚申塔の下の敷茄子は、このお地蔵様のものだったのではないだろうか?蓮台も、石塔または台座もないが、正徳4(1714)造立の念仏供養塔の主尊だとしたら相当古い講中仏ということになるが・・・
入口左には庚申塔と六地蔵菩薩。入口右の二基と同じく、白カビにまみれていた。
入口近くに庚申塔。駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。
頭上の蛇?も青面金剛の顔立ちもはっきりしないが、銘は比較的きれいに残っている。像の右脇に造立年月日。ただし年号はなく、甲寅十一月吉日となっている。江戸時代の年表で調べると「甲寅」は慶長19(1614)延宝2(1674)享保19(1734)寛政6(1794)安政元年(1854)邪鬼・二鶏・三猿がそろい、基本的な構図、彫りは後期のような技巧的なものではなく、より素朴な感じがすることから、享保19年が有力だと思うのだがどうだろう?像の左脇に鴨田村
講中十七人?右下に願主とあり、左下に項?譽休□と刻まれていた。
石塔の下部は風化が進み、特に青面金剛の右足はかなり細くなっている。その両脇に真っ白な二鶏。足元の邪鬼も、その下の三猿も白カビに覆われて顔もはっきりしない。
その奥に丸彫りの六地蔵菩薩立像。細長い台に、三基ずつ分かれて並んでいた。六体とも頭部に補修跡があり、多少大きさが違うようにも見えるが、蓮台とその下の石塔はよくそろっていて石塔の正面にはそれぞれの地蔵名が刻まれている。
左端、左側面は無銘。右側面には施主 當村とある。
2番目、こちらも左側面は無銘。右側面には萬人講 願主
十人、市場内路中。
3番目も左側面は無銘。右側面 萬人講 願主
十人、鍛冶屋□内路中と刻まれていた。一条院の地蔵塔でも鍛冶屋□を見かけたが地名なのだろう。鍛冶屋というように見えたのだが、これはあまり自信はない。
4番目は右側面に明和8年の命日と戒名。左側面に施主名。5番目、6番目はともに右側面に萬人講とあり、その周りにいくつか戒名が刻まれている。紀年銘は命日だけで、造立年は定かではないが、一番新しい命日が明和8年なので、安永年間あたりだろうか。
観明院観音堂墓地 川越市鴨田432[地図]
市場集会所から西へ向かい突き当りのT字路を右折、100mほど北へ進むと道路左側に観明院観音堂の墓地がある。南の入口近く、大きなスダジイの木が立っていた。
観音堂から見た入口付近。大木を囲むように、多くの石塔が整然と並んでいる。
南の入口から入ってすぐ左手、六地蔵を中央に石仏が北向きに立っていた。
左端 庚申塔 天明5(1785)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
剣・ショケラ持ち六臂。
石塔の上部、青面金剛の頭の右脇「庚申待供養塔」、左脇に造立年月日。青面金剛の顔はつぶされている。
足を折り曲げたショケラは青面金剛の腰にすがりつく。足の両脇に二鶏を半浮彫。足元に邪鬼、三猿と揃い、このあたりはバランスが良い。
塔の右側面に願主とあり、四名の名前。左側面にも四名の名前があり、続いて内路志女中と刻まれていた。
2番目 庚申塔
安永9(1780)丸みを帯びた舟形光背に二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。右脇に「庚申供養所」左脇に造立年月日。石塔の下部に西門惣女中と刻まれている。如意輪観音を主尊とする庚申塔というのは他の地域ではあまり見かけなかったのだが、前回の市場集会所墓地、10月14日の記事の上老袋自治会館脇と立て続けに三件見ることになった。いずれも女人講中によって造立されたもので、上老袋の記事でも書いたのだが、女人講であることから主尊として如意輪観音が選ばれたのではないだろうか。それにしても、川越市東部地域は女人講中によって造立された石塔が目立って多く、他の地域に比べて女人講の活動が盛んだったようだ。
中央 丸彫りの六地蔵菩薩立像
安永2(1773)それぞれ首に補修跡が見られるが、尊顔はよく似ている。六基とも石塔の正面に地蔵名が刻まれ、側面には戒名などが刻まれていた。
右端の石塔の右側面に造立年月日。正面には地蔵名の両脇に「奉納大乗妙典廻国供養」と刻まれている。
左端の石塔の右側面、奥に庚申講中十六人志、手前に萬人講中、二つの講中が協力して造立したもののようだ。
その隣
顔がつぶされた丸彫りの地蔵菩薩立像。本来の台がなく、銘が確認できないためこちらの詳細は不明。
右端 蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩坐像
宝暦6(1756)錫杖の先の部分を欠く。お地蔵様のお顔はどことなく人間臭い。
石塔の正面に偈文。左側面には手前に造立年月日。続いて内路中志、鴨田村 施主
清水氏。
右側面中央、梵字「カ」の下に「奉参拝千體地蔵尊」右脇に爲三界萬霊
有縁無縁、左脇に所願成就之所と刻まれていた。
東向きに並ぶ石塔群。多くは墓石だが、左のほうに立つ丸彫りの地蔵塔、中央の舟形光背型の地蔵塔、右端の庚申塔を見てみよう。
地蔵菩薩立像
享保18(1733)丸彫りだが、錫杖、宝珠とも健在、首に補修跡も見られなかった。
塔の正面中央
梵字「カ」の下「庚申供養之所」地蔵菩薩を主尊とする庚申塔である。両脇に造立年月日が刻まれている。塔の西側面 西門惣女中。こちらもまた女人講中。
中央 地蔵菩薩立像
正保4(1647)大きな舟形光背に厳しい表情の地蔵菩薩像を浮き彫り。住職の墓石だが、こちらはたぶん川越市内で最も古い地蔵塔ではないだろうか。
右端 庚申塔 宝永4(1707)粗彫りの駒型の石塔の正面を深く彫りくぼめた中、日月雲
青面金剛立像 合掌型六臂。像の両脇に造立年月日。
足元に邪鬼の姿はなく、向き合うように二鶏を半浮彫り。さらにその下に三猿が彫られていた。
塔の両側面、下部を四角に彫りくぼめた中、それぞれ4名、合わせて8名の名前が刻まれている。
県道51号線新田バス停脇 川越市石田本郷997向い[地図]
県道51号線工業団地入口交差点から東へ100mほど進むと道路右側の木々の間に石塔が立っていた。
地蔵菩薩立像
宝永6(1709)塔の正面を深く彫りくぼめた中に、蓮台に立つ地蔵菩薩像を浮き彫り。彫りは粗く、像の周辺に平らな面がほとんど見当たらない。
顔面の破損は人為的なものだろう。左手の宝珠も今一つはっきりしない。
塔の左側面に造立年月日。右側面に「奉納日待供養」続いて石田本江新田施主と刻まれていた。地蔵菩薩を主尊とする日待供養塔ということになる。【余談ですが】ここで石田本江新田とあるが、古谷本郷の薬師堂墓地の庚申塔にあった「古尾谷本江村」と合わせて考えてみると、本江=本郷?ゴウという音が同じなので、石田本江→石田本郷、古尾谷本江→古谷本郷と考えられるのだがどうだろうか?
塔の正面の最下部に20名ほどの名前が刻まれていた。
石田本郷路傍 川越市石田本郷906向い[地図]
県道51号線の新田バス停のすぐ西のT字路から北へ向かう。500mほど先の十字路を左折して細い道路を西へ進むと道路右側に二基の石塔が並んでいた。
右 庚申塔 元禄15(1702)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。シンメトリックな構成で、バランスが良い。
上部に日月雲。青面金剛の右脇「奉納庚光眞供養」庚光眞=庚申と思われるがよくわからない。文政のヘンとツクリを縦にならべたり、供養の養の上下を横にしてみたり、オンが同じ字を代用したり、江戸時代独特の言葉遊びだろうか?左脇に造立年月日が刻まれている。
元禄期の庚申塔、大下公民館北東の庚申塔と同じくやはり邪鬼は不在。足の両脇に二鶏、足元は磐座か。下部に三猿。三猿の下の部分、右端に石田本江、左端に□十一人、その間に十名ほどの名前が刻まれていた。
左 地蔵菩薩立像
享保10(1725)塔の上部が欠け、白カビが積もっている。こちらは個人の墓石だった。
芳野小学校北交差点角 川越市石田本郷532[地図]
芳野小学校の正門前の交差点の角に墓地がある。その入り口右手前の歩道のところに馬頭観音塔
天保14(1843)が立っていた。四角い台の上の角柱型の石塔の正面上部に馬頭観音坐像を浮き彫り。その下に「馬頭觀世音」台の正面に大きな字で萬人講と刻まれている。
浮き彫りされた馬頭観音坐像は三面八臂。顔の表情ははっきりしない。頭の中央に馬頭。狭いところにもかかわらず、指の一本一本までしっかりと、彫りは細かく丁寧である。
塔の右側面に造立年月日。台の右側面には世話人とあり、二名の名前。さらに願主一名の名前が刻まれていた。
塔の右側面に入間郡石田本郷中。台の左側面には左
金兵衛渡しとあり、道標になっている。
墓地に入って左側、ブロック塀の前に三基の地蔵塔が並んでいた。
左 地蔵菩薩立像
宝暦7(1757)四角い台の上に角柱型の石塔、その上に蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。像に大きな欠損はなく美しい状態を保つ。
石塔の正面を彫り苦の眼た中に「地蔵大菩薩」右側面上部に造立年月日。その下に施主
當村中、并(並)村々 萬人講。左側面には願主、世話人各一名の名前が刻まれている。
中央 地蔵菩薩立像
寛政3(1791)四角い台の上の石塔に、敷茄子・蓮台を重ね、その上に丸彫りの地蔵像。像はこちらのほうが一回りサイズが大きい。こちらも錫杖。宝珠は健在。
敷茄子の下の石塔の正面 中央に「奉納 大乗妙典日本 廻國六十六部
供養塔」両脇に天下泰平・國土安全。さらにその両脇に造立年月日。右下に石田本郷、左下に行者 智□。右側面に安永8年と安永9年の命日を持つ二つの戒名。左側面には施主、世話人各一名の名前が刻まれていた。
右 地蔵菩薩坐像
安永9(1780)大きな四角い台の上にやや小型の反花付きの台。その上に角柱型の石塔、敷茄子、蓮台の上に地蔵菩薩半跏坐像。合わせると3m近くなろうか?ここに並ぶ三基の地蔵像は、いずれも丸彫りだが、風化も少なくそろって欠損がない。
石塔の正面
梵字「ア」の下に「贈権大僧都大阿闍梨法印圓空和尚位」高僧の墓石らしい。両脇の紀年銘は命日だろう。
塔の右側面 南田嶋住栗原氏生 教勧□良範行歳六十。左側面に石田本郷
當寺。かつてここにあったお寺のご住職のお墓と思われる。
石田本郷観音堂墓地 川越市石田本郷578[地図]
鴨田東から工業団地を抜けて菅間へ向かう道。芳野中学校を過ぎてすぐ先を左折、100mほど進むと観音堂の墓地があった。
墓地の一番奥、道路側のトタンの塀の裏に二基の石塔が並んでいる。
左 馬頭観音立像
安永9(1780)塔全体に風化が進み、白カビも多く、遠くから見ると何が何だかわからない。近寄ってみるとどうやら六臂のようだ。顔は三面だが正面の顔は削れている。脇の顔を見ると慈悲相らしい。像の右脇「奉造立馬頭觀世音菩薩」塔の右側面に願主一名の名前が刻まれていた。
塔の一部は剥離、銘が読みにくい。それでも左脇にはっきりと「九庚子」と見えて、九年の干支が庚子となると安永しかない。そう思ってよく見てみると、上のほうに「安」のウ冠が確認できて、その下に「水」のように見えるのが「永」だろうと、やっと造立年が確定できた。
右 庚申塔。舟形光背に日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂ということだが、ご覧のとおり、像も光背もたくさんの穴が穿たれていて、惨憺たる状況。銘も一切残っていない。足の両脇は薄くふくらみがあって、もしかしたら二鶏かもしれないが、邪鬼は見当たらず、造立年は元禄期あたりだろうか。
下部に正面向きの三猿。その下の部分には十数人の名前が刻まれていた。