鹿飼・菅間の石仏

鹿飼公民館入口東住宅前 川越市鹿飼450[地図]


芳野中の南の道を東へ進み、古川排水路の橋を渡って、鹿飼公民館へ向かう道のすぐ先、道路左側の入口のところに石塔が立っていた。


馬頭観音塔 天保11(1840)四角い台の上、角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」右側面に造立年月日。左側面に比企郡鹿飼村。下の台の正面に「萬人講」鴨田、老袋地区ではこの「萬人講」というのを頻繁に見かける。多くの人たちで作った講という意味だろうか?なお、この馬頭観音塔は資料には記載されていなかった。

鹿飼T字路交差点角 川越市鹿飼459向[地図]


さらに東へ100mほど、道路左側のT字路の角のところに石塔が並んでいた。


右から 地蔵菩薩坐像。二段の四角い台の上に反花付きの六角形の台を重ね、さらに丸い敷茄子、厚い蓮台に地蔵菩薩坐像が載る。なんとも凝った構成で本格的な地蔵菩薩塔ではあるが、残念ながら風化のためか紀年銘は見当たらず造立年は不明。


顔は削れていてのっぺらぼう。錫杖・宝珠も欠けていた。白カビも目立つが、その姿は堂々としていてどこか風格がある。


蓮台から下の部分の損傷状態を見ると、風化に加えて人為的な要素も多いようだ。


銘はほとんど読めないが、それでも上のほうの台の側面にところどころには銘が残っていて、その中に武州比企郡鹿飼村、□□講中などとかろうじて読み取れた。


中央 馬頭観音塔 明和8(1771)舟形光背に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。塔全体が白カビに覆われている。


頭上に馬頭。尊顔は三面とも白カビが張り付き表情などは分からない。


光背右下の部分に造立年月日。左下に施主 鹿飼村中と刻まれていた。


左の石灯篭形式の石塔は 石尊権現塔。造立年は不明。石尊権現塔は時々見かけるが、川越に入ってからは見た記憶がない。見逃していただけかもしれないが・・・

 

鹿飼公民館 川越市鹿飼423[地図]


鴨田から工業団地を抜けて菅間に向かう道路。芳野中学校のすぐ南、右手前の角に駐在所のある信号交差点を右折、古川排水路にかかる橋を渡って次のT字路交差点を左折して少し行くと、右前方に火の見やぐらが見えてくる。やぐらの下あたりに石仏が並んでいた。すぐ近くには鹿飼公民館があり、その奥が墓地になっている。


左から 馬頭観音塔 明治10(1877)隅を丸くした角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」台の正面に「萬人講」と刻まれていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面、手前から「奉開眼供養馬頭明王」瑜伽師 廣徳密寺 第廿二世 法印榮眞。ここの墓地はもともと廣徳寺の墓地だったのだろう。今の公民館のところに堂宇があったのかもしれない。


台の右側面に世話人のあり七人の名前。左側面に願主一名の名前が刻まれている。


その隣 地蔵菩薩立像 延宝5(1677)きれいな形の舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。


頭の後ろに輪光背を負いバランスの良い立ち姿。光背右上を大きく欠き、白カビも厚く銘は読みにくい。像の左脇に造立年月日。その下に六名ほどの名前が刻まれているように見える。


続いて弘法大師遠忌塔 天保5(1834)大きな四角い台の上 駒型?の石塔の正面上部、円の中に蓮台と梵字「ア」を彫り、その下に「弘法大師」台の正面「千年忌供養塔」台の右側面に造立年月日。左側面に武刕比企郡鹿飼村と刻まれていた。


その奥に地蔵菩薩坐像。台がなく地面に直接置かれている。錫杖を欠き白カビも厚く、銘が確認できないため詳細は分からない。


その隣の六地蔵の小堂の中、左端に地蔵菩薩立像 貞享2(1685)像の左脇に造立年月日。右脇「奉勤?修寒念佛一結成就爲菩提」寒念仏供養塔である。


足元の部分に11人の名前が刻まれていた。


最後に六地蔵菩薩立像 宝暦7(1757)像は色、サイズなどがちょっと不ぞろいな感じがするが、蓮台から下、特に石塔部はよく似ている。


石塔の正面には六地蔵を表す梵字の下にそれぞれの地蔵名が刻まれていた。右から2番目の塔の右側面 手前に造立年月日。奥のほうには比企郡鹿飼村老若男女念佛勧化と刻まれている。

芳野中学校東路傍 川越市鹿飼428北[地図]


鹿飼公民館の西の細い道を北へ進むと、道路右側に石塔が立っていた。古川排水路を隔てて西に芳野中学校の校舎が見える。


大六天塔 文化3(1806)駒型の石塔の正面に「大六天」大六天塔(あるいは第六天塔)はたまに見かける。塔の右側面に造立年月日。左側面には個人名が刻まれていた。

 

菅間下公民館墓地 川越市菅間551[地図]


下菅間交差点のすぐ北、菅間緑地の南に旧阿弥陀堂の墓地があった。その入口の両脇に小堂が立っている。写真右奥に見える建物は菅間下公民館である。


入口左、六地蔵の小堂の手前に多くの石塔がひしめくように集められていて、そのほとんどが墓石だった。


中央にひときわ高く、地蔵菩薩坐像を載せた石塔、大乗妙典六十六部供養塔 享和3(1803)左足を立てて座る地蔵像は丸彫りだが大きな損傷は見られない。塔の正面中央に「奉納大乗妙典六十六部供養塔」利用脇に天下泰平・國土安全。下部両脇に文化3年と文化5年の命日と戒名が刻まれている。塔の右側面を見ると越生村出身で江戸木町に住むご夫婦がこの石塔を建てたらしい。左側面には造立年が享和3年とある。その数年後に相次いで亡くなって、塔の正面にそのふたりの戒名が後刻されたのだろうか?


塔の裏面に「日本回国神社佛閣 拝禮成就大願満足」と刻まれている。


その右隣りの唐破風笠付きの角柱型の石塔、前の石塔の陰で上部しか見えていないが、尊像の頭上に馬頭がくっきりと見えた。


馬頭観音塔 天保4(1833)石塔の正面の上部を丸く彫りくぼめた中に八臂?の馬頭觀世音坐像を浮き彫り。その下にはおそらく「馬頭觀世音」とあるのだろうが、この状況では確認できない。


塔の右側面に造立年月日。隣の石塔との隙間が狭く、塔のうらにまわってやっと確認できた。


こちらが左側面。願主菅間村とあり、左のほうに世話人、その下に9名の名前が刻まれている。


小堂の中に丸彫りの六地蔵菩薩立像 明和元年(1764)像のサイズはまちまちだが、下部、特に石塔はよくそろっていて、戒名、命日、施主名などが刻まれていた。


左端の石塔の正面中央「奉造立地蔵尊」両脇に造立年月日。3番目の石塔の正面「奉誦普門品二万巻 奉造立地蔵大菩薩 爲先祖菩提也敬白」その右側面にも明和元年の紀年銘が刻まれている。



六地蔵の奥 屋根型の笠を持つ宝篋印塔 天保元年(1830)基礎の正面に「宝篋印塔」裏面に造立年月日。その横に「念佛供養塔」正面に彫り物を施された反花付きの台の右側面に「万人講」左側面に菅間村施主 下内呂中。この「内呂」、鴨田でよくみかけた「内路」と同じだろうか?


入口右側、こちらにも小堂があり、その手前に小さな角柱型の石塔がぽつんと立っていた。


馬頭観音塔 明治28(1895)角柱型の石塔の正面に「馬頭觀世音」


塔の右側面に造立年月日。左側面に芳野村大字菅間とあり、願主二名の名前が刻まれている。


小堂の中には如意輪観音塔、地蔵菩薩塔が二基づつ、合わせて四基の石仏が並んでいた。


右端 如意輪観音坐像 安永2(1773)舟形光背に二臂の如意輪観音。右脇に造立年月日。左脇に下菅間村願主講中と刻まれている。


その隣 橋供養塔 享保10(1725)二段の台の上、大きな敷茄子、蓮台に丸彫りの四角い顔の地蔵菩薩坐像。


敷茄子の正面に「橋供養塔」右側に造立年月日。左側には下菅間村と刻まれていた。


続いて地蔵菩薩立像 元禄15(1702)舟形光背に輪光背を持った地蔵菩薩像を浮き彫り。右脇「念佛供養祈」その下に武刕入間郡河越領下菅間村。左脇に造立年月日。古仏である。


左端 如意輪観音坐像 寛政元年(1789)こちらは「法尼」というあまり見ない戒名が刻まれていて、どうやら個人の墓石のようだ。

 

旧阿弥陀墓地東歩道 川越市菅間551東[地図]


前回紹介した旧阿弥陀堂墓地入口の近く、歩道の隅に石塔が西向きに立っていた。


雨除けの下 庚申塔 宝暦9(1759)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


上部、日天月天を乗せた瑞雲は中央でつながるタイプ。青面金剛の顔は破損しているがこれは人為的なものだろう。像の右脇に天下泰平、左脇に國土安全と刻まれていた。


足の両脇に二鶏を半浮彫り。頭と背中を踏みつけにされた邪鬼の下に三猿。両側の猿が内を向く。


塔の右側面に造立年月日。左側面に菅間村講中、続いて願主一名(菅間氏)の名前が刻まれていた。

菅間渡し道 路傍 川越市菅間1094[地図]


旧阿弥陀堂墓地の東の道を入間川の土手方面に向かい、古川排水路を越えて200mほど。道路右側の細い道に入ってすぐ右手に二基の石塔が立っていた。奥の石塔は風化が著しく表面が剥落、銘は確認できず詳細は不明。


左 庚申塔 宝暦8(1758)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


頭上に蛇がうずたかくとぐろを巻く。三眼の青面金剛は目を吊り上げ精悍な顔立ち。


足の両脇に二鶏。足元に邪鬼と三猿。このあたりの様子は上の旧阿弥陀堂墓地東歩道の庚申塔と非常によく似ている。改めて全体を比べると角柱塔駒型と駒型の違いはあるものの、尊像全体の様子、頭上の蛇、青面金剛の衣装、その三組の腕のあたりもそっくり同じように見えてくる。


下の台は半ば土に埋もれていて銘の上部だけが覗いていた。右端に造立年。二つの庚申塔の造立年は一年違い。続いて上菅間・・、講中、三十・・、願主その下は菅の一部でやはり菅間氏?この二つの庚申塔は同じ石工の仕事で、兄弟塔と言っていいのではないだろうか。

 

観音寺墓地 川越市菅間795[地図]


入間川と古川排水路に挟まれた菅間の集落の中、火の見やぐらのあたりに観音寺の墓地がある。墓地は東西に分かれていて、こちらが西の墓地の入口。正面にお堂が立っているがいつ行っても扉が閉まっていて、堂内の様子はわからない。


入口から入って左側、小堂の中に板碑と二基の地蔵菩薩塔、その右脇に二基の石仏が並んでいた。


小堂の中、板碑の横に地蔵菩薩立像 寛文7(1667)大きな舟形光背に地蔵菩薩像を浮き彫り。錫杖・宝珠なども欠損なく、尊顔はふくよかで威厳がある。このような両唇が厚いタイプは初期のお地蔵さまで時々見かける。光背右脇、武刕入間郡須賀村念佛講供養石地蔵同行處。左脇に造立年月日。その下に施主 観音寺と刻まれていた。


その隣 地蔵菩薩立像 文化5(1808)駒型に近い舟形光背に地蔵菩薩像を浮き彫り。上部両脇に三界萬霊。さらに両脇に居士、大姉戒名。右下に紀年銘。こちらは命日かもしれない。左下に菅間村市野川氏。この墓地のいくつかの石仏の願主、世話人としてこちらの名前が多く見られる。



小堂の脇、地蔵菩薩立像 文化(1809)四角い台の上、角柱型の石塔に丸彫りの地蔵菩薩像。錫杖の先の部分が欠けていた。


石塔の正面「延命子育地蔵尊」右側面に造立年月日。左側面には菅間村願主とあり4名の名前が刻まれている。

馬頭観音塔 文政7(1824)四角い台の上、笠付き角柱型石塔の正面に二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。頭上の馬頭は明快。


塔の右側面、上部に梵字「キャ」「サ」「キリーク」その下に十一面觀世音、聖觀世音、千手觀世音。下部に右から武刕入間郡、中菅間村、左端に造立年月日。


左側面上部、右から梵字「ポ」「キリーク」「サク」その下に准觀世音、如意輪觀世音、徳大勢至菩薩。正面の馬頭観音と右側面を合わせて六観音がそろい、さらに勢至菩薩が加わる。勢至菩薩と六観音塔というと、練馬区中村の良弁塚で見た七面石幢を思い出す。観音菩薩と勢至菩薩はともに脇侍として阿弥陀如来にお仕えする、そんな関係性において一緒に祀られるのだろうか?下部には普門品、観音講中とあり、世話人3名の名前が刻まれていた。


入口右側、ブロック塀の前に4基の石塔が並び、さらに六地蔵の小堂が立っている。


右から 阿弥陀如来坐像 寛文12(1672)浮き彫りされた像はまるで丸彫りのように厚い。こちらは個人の墓石のようだ。


2番目 薬師如来立像 元禄14(1701)きれいな形の舟形光背に薬師如来像を浮き彫り。腹前に薬壺を持つ。こちらは銘に権大僧都・・とあり、観音寺住職の墓石か。


3番目 如意輪観音坐像 宝暦8(1758)大きな光背に二臂の如意輪観音。右脇に「念佛講中」左脇に造立年月日。塔の下部正面に施主 中菅間村と刻まれていた。


左端 馬頭観音塔 明治13(1880)角柱型の石塔の正面に「馬頭觀世音」下の台がひどく削られている。


塔の右側面に造立年月日。左側面に願主 市ノ川氏。世話人5名の名前が刻まれていた。


小堂の中の六地蔵は不揃い。石塔の前面も多くが剥落。右から2番目に嘉永4年の紀年銘が見られるが命日だろう。六地蔵の左脇に立つ丸彫りの地蔵像も銘などは見当たらず、こちらもその詳細は分からない。


こちらが東側の墓地。写真右のほうに隣の神明神社の鳥居が見える。またその奥には「菅間中・下公民館」が立っていた。墓地の入口近く、宝篋印塔の先のブロック塀の前には墓石が並び、その先、宝篋印塔のほうを向くように3基の石塔が立っていた。

左 地蔵菩薩立像 寛文6(1666)光背の一部は欠けているが、像は損傷が少なく尊顔も美しい。銘は風化のためだろうかかなり読みにくい。光背の上のほう、両脇に造立年月日。中ほど、右に武刕入間郡、左に下菅間村。下部両脇の銘は読み取れなかった。地蔵像の中央、衣装の前垂れに銘があるがひどく薄く、「奉・・・・爲・・・・」以下は不明。


真ん中の板碑型の石塔は墓石。右 庚申塔 寛保元年(1741)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。塔全体に白カビが厚くこびりついている。足の両脇に二鶏。足元に邪鬼。三猿の構図はオーソドックス。


塔の右側面は無銘。左側面に願主とあり、六名ほどの名前。その下に観音寺と刻まれている。


塔の裏面、荒彫りの中に造立年月日。こちらも白カビが多く文字は読みにくいが、かろうじて寛保元年と確認できた。