下広谷観音堂 川越市下広谷465-3[地図]
県道256号線を坂戸方面に進む。圏央道の300mほど手前、道路左側に観音堂の入口があった。路地を進むと右手に観音堂、左手のフェンスの前には多くの石塔が並んでいる。
左から如意輪観音坐像
明和6(1769)舟形光背中央、梵字「キリーク」の下に二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。光背右脇「奉造立如意輪觀世音菩薩」左脇に造立年月日。さらにその横に武刕高麗郡下廣谷村。下部中央に講中と刻まれていた。
その隣 如意輪観音塔
天明3(1783)角柱型の石塔の正面の銘は薄くなり一部だけしか読めない。中央に「□如意輪觀世音菩薩」両脇に造立年月日。石塔の上に敷茄子、蓮台が健在で、創建時にはその上に丸彫りの如意輪観音像が載っていたのだろう。今はただ円筒形の石塊があるだけで、その当時の面影は全く残っていなかった。
塔の左側面に願主とあり、下廣谷村念佛講中。その両脇にひらがなで三つの名前が刻まれている。
塔の右側面にも多くの名前が見えるが、やはりひらがなで、この念仏講は女人講と思われる。正面の銘が今一つはっきりしないので断定はできないが、主尊が如意輪観音で女人講造立ということから考えると、二十三夜塔などの月待供養塔だろうか。
続いて地蔵菩薩立像
文化11(1815)梵字「カ」の下に丸顔の地蔵菩薩像を浮き彫り。江戸時代後期の石仏にしては風化が少なく状態はいい。
塔の右側面に造立年月日。その横に大きく念佛講中。左側面には武刕高麗郡下廣谷村と刻まれていた。
その隣 庚申塔 安永3(1774)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。頭上に蛇がとぐろを巻く。白カビが多く、青面金剛の顔ははっきりしない。
弓を持つ右手の下に道六神と刻まれていた。「道六神」を調べてみると「道祖神」のことらしい。村境や道の辻に立ち、塞の神の役割を果たしていたのだろうか。足の両脇に単純化されたデザインの大きめな二鶏。足元には頭でっかちの邪鬼がうずくまり、その下に正面向きの三猿が彫られている。
塔の左側面に造立年月日。その横に武刕高麗郡下廣谷村
願主とあり、僧俗二名の名前が刻まれていた。
右側面の銘が変わっている。奉造立金剛青面/村々志施入家内安/全息災延命子孫/繁盛處。区切りもおかしいし、庚申塔の銘としては今まで見たことのないような表現。本格的な馬頭観音の像塔が目立って多く、その代わりにというように青面金剛庚申塔が少ないこの地域。石工さんも庚申塔には不慣れだったということだろうか?
続いて馬頭観音塔
宝暦9(1759)駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。ところどころ白カビが目立つ。
頭上に馬頭がせり出していた。正面の顔は三眼忿怒相。横の顔は慈悲相か。像の右脇「奉造立馬頭觀世音菩薩」下左手には数珠を持つ。
像の左脇、上部に造立年月日。上右手に持つのは未敷蓮華だろうか?
左下に武刕高麗郡
下廣谷村。足元の部分、右から願主とあり、一名の名前。中央に助願主とあり、下三十人。左のほうに志惣村中、□久保村と刻まれていた。
右端 常夜灯
文化11(1814)これも下広谷の念仏講中によって造立されたもの。竿部に今は廃寺となった光西寺の住職の名前があり、その呼びかけに応えたのだろう、台の側面にはこの常夜灯の造立に協力した近隣二十数ヶ村の名前が刻まれていた。
観音堂北T字路角 川越市下広谷465[地図]
観音堂の入口から県道256号線を北へ進むと、すぐ先の交差点の角に石塔が東向きに立っていた。
順礼供養塔 明治12(1879)自然石の正面「奉順拝 月山 湯殿山 羽黒山 西國 坂東
秩父 四國 供養塔」その下の台の正面に高麗郡下廣谷村。
台の左側面に造立年月日。続けて個人の名前が刻まれている。
圏央道南側道付近 川越市下広谷431北東[地図]
県道39号線の小堤(北)交差点からまっすぐ北へ向かう道は、このあたりでは県道256号線の西を並行して走り、ちょうど圏央道にぶつかるところでもっとも近づく。ここからこちらの道は左へ大きくカーブして圏央道の側道にはいることになるが、そのカーブの手前付近、左側の歩道の脇にお地蔵さまが立っていた。
地蔵菩薩立像
宝暦6(1756)舟形光背上部のせり出した部分に梵字「カ」その下に丸顔の地蔵菩薩像を浮き彫り。光背右脇「奉造立石地蔵尊」左脇に寒念佛講中。寒念仏供養塔というべきかもしれない。光背の下部両脇に造立年月日。
塔の右側面に武刕高麗郡。路傍にあったためだろうか、塔全体に白カビが目立つものの、この時代にしては像に損傷がなく美しい。村の人たちによっぽど大事にされてきたのだろうか。そういえば旧名細地域に入ってから、首がもげたり、顔が削られたり、そんな痛ましい石仏の姿をほとんど見かけなくなった。そういった土地柄なのかもしれない。
足元の部分に施主
下廣谷村とあり四つの僧名、続いて俗名、最後に上下村中と刻まれていた。
広谷小学校北西十字路角 川越市下広谷795-2向[地図]
広谷小学校の正門の前の道を北西に進みT字路にぶつかったら左折、100mほど先で右折して細い道に入る。少し行って斜め左の道をたどってゆくと、交差点の角に小型の石塔が立っていた。写真奥に見えているのは圏央道で、さきほどの寒念仏講中の地蔵塔のあたりから側道を使ってもアプローチは可能である。
馬頭観音塔
明和3(1766)駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音塔を浮き彫り。上の左手に未敷蓮華を持つのは珍しい。塔の上部両脇に「奉造立 馬頭観音」下部両脇に造立年月日。塔の周りは草が茂り、さらに塔もかなり深く土に埋もれていた。
小型の塔ながら頭上の馬頭はくっきり。三つの面はいずれも穏やかな慈悲相を示している。
塔の右側面、粗彫りの中に「武刕高麗郡」続きの「下廣谷村」を探してみたがどこにもない。もしかしたらと思って正面の馬頭観音像の足元を見たら左端に銘の上端がのぞいていた。土を掘って確認したわけではないが、たぶんこのあたりに施主名などの銘が刻まれているのではないだろうか。
県道256号線路傍 川越市下小坂458-4[地図]
永命寺から北へ向かい、県道256号線に出て西へ500mほど進むと、道路左側の会社の駐車場の隅に石塔が立っていた。
馬頭観音立像
天明3(1483)大きな四角い台の上に丸みを帯びた台を重ね、その上に蓮台に立つ丸彫りの三面六臂像。馬頭観音塔の多い地域だが、丸彫り像は希少で、最近では的場上交差点東路傍で見た丸彫り三面六臂の馬頭観音坐像が記憶に新しい(8月30日の記事)三面ともに三眼忿怒相で、正面頭上に馬頭が彫られていた。
脇の顔は横を向いている。ふくよかで曲線的な美しいフォルム。しっかりと馬口印を結ぶ合掌手。上の右手は蓮華だろうか。下右手には矢か?
上左手には法輪。下左手は弓だろう。台の右側面に造立年月日。
台の正面には下小坂村 講中
二十八人と刻まれていた。これだけ立派な石仏の造立には、村の多くの人たちの協力だったろう。
県道256号線莿橋西三叉路 川越市下小坂974南[地図]
県道256号線、平塚橋で入間川を渡り、しばらく進むと小畔川の莿橋のたもとにでる。橋を渡り切って長い下り坂をおりきった先、道路右手の三叉路の角に石塔が立っていた。
馬頭観音塔。舟形光背に一面二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。全体に風化が甚だしく進み、塔にも台にも銘は見当たらない。
像のほうもご覧のとおり漠然としていてはっきりしないのだが、胸前で合掌した手の様子は馬口印らしい。光背には合掌手以外の腕の跡は全く残っていなかった。
顔の真ん中が削れた頭部、頭上のふくらみは馬頭と思われる。ふっくらとした体形からも馬頭観音像で間違いないと考える。
永命寺 川越市下小坂688[地図]
小畔川の精進場橋の北、橋を渡り切って右に入ったあたりに永命寺がある。本堂の手前左側、墓地の入口に六地蔵の小堂が立っていて、その向かい側にも石仏が並んでいた。
六地蔵菩薩立像
天明3(1783)丸彫りの六体の地蔵像はいずれも顔に損傷がなく蓮台、石塔ともによくそろっている。
右端の石塔の正面に造立年月日。
左端の石塔の正面には下小坂村 施主
講中。中の4基の石塔は無銘だった。
六地蔵と向き合うように4基の地蔵塔が並んでいる。丸彫り立像、舟形光背型、丸彫り坐像、角柱型とバラエティに富む。
左から
地蔵菩薩立像。何回か探してみたが紀年銘がみつからず造立年不明。大きな四角い台の上に反花付きの台を重ね、その上に角柱型の石塔。さらに敷茄子・蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩像という豪華な地蔵塔。尊顔はきりっとして理知的。
石塔の正面を彫りくぼめた中に三つの戒名。さらに両側面にも多くの戒名が刻まれていて、そのいずれも大姉、居士、さらに院号付きの戒名だった。この地蔵塔はたぶん相当に有力な家の墓石で、お寺にとっても大事な檀家さんなのだろう。
その隣 地蔵菩薩立像
寛文12(1672)大きく鋭角的な舟形光背に円光背を負った地蔵菩薩像を浮き彫り。像に損傷は少なく尊顔は生き生きとしている。
光背右脇「爲三界萬霊有無二□建立之者也」その下に造立年月日。左脇に武刕入間之郡
下小坂村 施主□□敬白と刻まれていた。
続いて大乗妙典供養塔
享保20(1735)左端の丸彫り地蔵塔と同じような構成。分厚い敷茄子と蓮台の上に主尊の地蔵菩薩坐像が載る。
左足を立てた地蔵菩薩半跏坐像はかなり激しく損傷を受け、顔も何やらおぼつかない。この状態では本当に地蔵菩薩像?という感じである。
塔の正面中央「奉□□大乗妙典六十六部供養成就所」上部両脇に乃至法界・平等利益。右下に武刕高麗郡下小坂村。左下は銘が薄くうまく読めないが最後に造立之。塔の右側面に造立年月日。
左側面 供養□施主 村中、その横に開眼施主
男女廿六人。下部に延命地蔵菩薩経の偈文が刻まれていた。塔の上の坐像はやはり地蔵菩薩なのだろう。
右端 地蔵菩薩塔
文久3(1863)四角い台の上、角柱型の石塔の正面を舟形の彫りくぼめた中に地蔵菩薩立像を浮き彫り。
塔の右側面に二つの童子童女戒名と命日が刻まれ、基本的には墓石だろう。続いて下小坂村世話人とあり、下部に組合、親類。最後に施主は個人名が刻まれていた。
塔の左側面に造立年月日。さらに永命寺 泰雅代と刻まれている。