安比奈新田・的場の石仏

安比奈公民館 川越市安比奈新田21[地図]


八瀬大橋を渡って県道260号線の的場上交差点を左折、700mほど先で細い道を右に入ってゆくと八幡神社の隣に安比奈公民館があった。その敷地の西の隅、ブロック塀の前に小堂が立っている。


小堂の左脇に二基の石塔が並んでいた。


右 百ヶ所観音供養塔 安永9(1780)隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「サ」の下に「奉納 秩父 西國 坂東 百ヶ所爲二世安樂也」さらに願主とあり、5名の名前が刻まれている。


塔の右側面 武刕高麗郡安比奈村。下部に3名の名前。


左側面に造立年月日。こちらは下部に2名の名前が刻まれていた。


その隣 馬頭観音塔 天明6(1786)舟形光背に二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。光背右脇「馬頭觀世音菩薩」左脇に造立年月日。足元の部分に安比奈村 施主とあり、個人名が刻まれている。


三面六臂の馬頭観音像が多い中、一面二臂像はかなり珍しい。頭上に大きな馬頭、ふっくらと結んだ馬口印。尊顔はおだやかで慈悲相というべきだろう。小さいながらも味わい深い秀作だと思う。


小堂の中には三基の石塔が並んでいた。


左 月待供養塔 正徳6(1716)大きな駒型の石塔の正面を彫りくぼめた中、上部に日月雲、その間にあまり見たことがない梵字、なんと読むのだろう?


中央に「月待講供養爲二世安樂」右脇に造立年月日。左脇に武刕高麗郡安比菜村施主。


塔の下部には細かい字で25人の名前が刻まれている。


中央 地蔵菩薩立像 元禄6(1693)舟形の光背は一部がわずかに欠けていているものの大きな損傷はない。足元の部分、中央に安比奈村と刻まれていた。


顔は削られているが、耳や額のラインなど細部が残っていて、なんとなく雰囲気は分かる。錫杖、宝珠は健在。光背左脇に造立年月日。光背右脇には「奉納念佛供養二世爲安樂」念仏供養塔として造立されたお地蔵様のようだ。


右 地蔵菩薩立像 享保5(1720)角柱型の石塔の上に蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。こちらも顔の真ん中はつぶされていた。蓮台の上部の凸凹はいつものくぼみ穴だろうか。


石塔の正面中央「奉建地蔵大菩薩」両脇に造立年月日。


左側面には武刕高麗郡 安比奈村念佛。その下の部分が剥落しているが「念佛講中」と思われる。

 

的場上交差点西三差路 川越市的場178はす向かい[地図]


八瀬大橋を渡って北へ進むとやがて道は左右に分かれ、その先で鯨井狭山線(県道144号線ならびに県道260号線)と交差し、そのどちらも的場上交差点となっている。ここを左折して150mほど先、道路右側の三差路の角に石塔が立っていた。


猿田彦大神塔。笠付きの角柱型の石塔の正面を深く彫りくぼめた中に「猿田彦大神」かなり風化が進んでいる。


両側面にもかすかに文字らしきものが見えるが風化の為に読み取ることはできなかった。造立年など詳細は不明。

的場上交差点北西路傍 川越市的場150[地図]


八瀬大橋の北、左に分かれて北西に向かう道を進むと県道15号線に出る。的場上交差点から300mほど先、道路左側の会社の入口付近に馬頭観音塔が立っていた。


新旧二基の馬頭観音塔が前後に並ぶ。銘は全く同じで、前の塔は後ろの明治16年造立の馬頭観音塔が風化の為に傷んできたので新たに再建されたものだろう。塔の正面に「馬頭觀世音」左側面に造立年月日と個人名が刻まれていた。

的場上交差点東路傍 川越市的場448南[地図]


的場上交差点から100mほど東、道路左側の田んぼのあぜ道のような狭い砂利道に入ってゆくと、左側の路傍に石塔が並んでいた。


右 馬頭観音塔 元文4(1739)大きな四角い台の上に角柱型の石塔、その上の蓮台に三面六臂の馬頭観音半跏坐像、左足を立てている。丸彫りの馬頭観音像は珍しい。胸前で馬口印を結び、腹前で壺を持つ。


頭上には大きな馬頭。左肩の少し下から三番目の左手がまっすぐ下へ、手には弓を持っていた。


丸彫りのために横の面は浮き彫り像に比べてはっきりと横を向いている。ちょっと憂鬱そうな表情だが、三面ともに忿怒相だろう。三番目の右手は矢を持っていた。


角柱型の石塔の正面 右から造立年月日。続いて「奉造立馬頭觀世音菩薩」その隣はちょっと読みにくいが百度□□諸願成就所。左端には武州高麗郡的場村。


右側面に導師と願主の名前。続いて施主當村。その下に笠幡村、安比奈新田と刻まれている。


左側面にそれぞれ金百疋とあり二名の名前。金百疋というのが今のお金でいくらになるのかわからないが、特に多額の寄進者だろうか。


左 馬頭観音塔 元治2(1865)四角い台の上の自然石の正面「馬頭觀世音」


背面に造立年月日。元治で乙丑は2年。その横に的場郷とあり個人名が刻まれていた。

 

若宮八幡社北東三差路 川越市的場497[地図]


的場上交差点の北東にある若宮八幡社から細い坂道を北へ上ってゆくと裏の通りに出る。ここから100mほど東、道路左側の三差路に三基の石塔が並んでいた。


右 大乗妙典供養塔 文化9(1812)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「奉納大乗妙典日本回国」



塔の右側面に大きな字で造立年月日が刻まれていた。


塔の左側面に武刕高麗郡的場村。その横に出成界?上座。続いて行者一名の名前。その左に文政3年の紀年銘が見えるが、文字が小さく吉日でもないことから、順礼を成し遂げた行者が亡くなられたあとに、その命日が後刻されたものではないだろうか。


中央 地蔵菩薩立像 宝暦9(1759)四角い台の上に角柱型の石塔、さらに台形の敷茄子、四角い蓮台が載り、その上に舟形光背に浮き彫りされた地蔵菩薩像が載っていた。凝った作りである。


顔は削られていて錫杖の先も欠けていた。白カビにまみれているがその立ち姿はバランスがよく品がある。


石塔の正面中央「奉造立地蔵尊」両脇に造立年月日。右側面 武刕高麗郡 的場村。


左側面に観音經講中 念佛講中。この立派な地蔵菩薩塔は的場村の二つの講中が協力して造立したもののようだ。


左 千手観音菩薩立像 寛政8(1796)風化が進み像全体が漠然としている。観音像と言えば、馬頭観音を除くと聖観音、如意輪観音が圧倒的に多く、千手観音は十一面観音とともに希少で貴重な石仏と言えるだろう。


尊顔は惜しいことにつぶされていた。胸前の合掌手、腹前に壺を持つ手、光背に7組の手、合わせて18臂だろうか。剣や法輪、数珠などを持っている。


塔の左側面に造立年月日。右側面に武刕高麗郡的場村。横から見ると頭上に人面らしい跡が見えるが今一つはっきりしない。


足元の部分に□倉 上沢 下沢 施主 □□講中、さらに世話人とあり三人の名前が刻まれていた。

若宮共同墓地 川越市的場481東[地図]


上の三差路から少し東に進むと道路右手に「若宮共同墓地」があった。的場駅付近から県道114号線で安比奈方面に向かい、関越道を越えた少し先の右上、小高くなったところに見える墓地である。


入口すぐのところに六地蔵石幢 元文3(1738)立派な笠付きの六面石幢。六体の地蔵菩薩像の頭上には揃って卍が刻まれていた。


正面の二面、左の面には銘がない。右の面の像の右脇に武刕高麗郡的場村。左脇に願主 善□上座。


右のほうの二面、そのうちの左の面の像の右脇「奉造立地蔵願主菩薩」左脇に造立年月日。銘の内容からこちらが本来の正面と思われる。右の面の像の右脇に百日□□・・・・。風化の為にうまく読み取れない。左脇に入間川道 村数九ヶ村と刻まれていた。


こちら左のほうの二面。実際には裏面に当たるものと思われ、銘は見当たらない。

 

法城寺 川越市的場1902[地図]


的場駅の東の踏切を渡って北へ進むと、道路左側に法城寺の入口があった。山門の右手前に石塔が並んでいる。


手前から見てゆこう。まずは七基の馬頭観音の文字塔。いずれも石塔の正面に「馬頭觀世音」と刻まれている。造立年は右から明治26年、明治24年、昭和22年、昭和22年、昭和15年、明治35年、明治30年。施主は個人名が刻まれていて、どうやら馬の供養塔のようだ。


その奥に三基の舟形光背型の石塔が並んでいた。右 如意輪観音坐像 宝暦9(1759)二臂の如意輪観音。全体に風化が進んでいた。石塔の下部には的場村 惣村中と刻まれている。


顔は削られて目鼻ははっきりしない。光背上部「奉造立」右脇に享保十一丙午年。この紀年銘はその横の銘の内容と関連があるのではないかと思うのだが安置川原・・・・・以下が全く読めず意味は分からない。左脇に刻まれた宝暦9年の紀年銘は最後が吉日となっていて、こちらが造立年月日だろう。


その隣 聖観音菩薩立像 享保17(1732)舟形光背に右手に蓮を持ち、左手は与願印の聖観音像を浮き彫り。光背の一部が欠けていて、全体に風化が進んでいた。


光背右脇に造立年月日。その横に「奉納西國坂東秩父順礼諸願成就是也」観音霊場順礼供養塔ということになる。左脇、武刕高麗郡的場村とあり、その下は三行、貳百三拾四枚、百三拾四枚、百三拾四枚?その下はそれぞれ野村五□□、野村五兵衛、野村弥□□門。と思うのだがちょっと自信はない。


続いて如意輪観音坐像 享保11(1762)シャープなフォルムの舟形光背に円形の頭光背を負った二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。顔や手足の様子、衣装のひだなど、彫りは結構細かいところまで残っている。


光背右脇「奉造立橋供養佛」如意輪観音を主尊とする「橋供養塔」ということになるが、石橋供養塔の主尊は地蔵菩薩、馬頭観音、聖観音菩薩などが多く、如意輪観音というのはあまり見ない。さらに右下、江戸麻布一本松 願主 清誉法印 □生山中子?調べてみると麻布一本松には臺雲寺という曹洞宗の寺院があり、当時同じ曹洞宗のお寺としてなんらかの関係があったのかもしれない。光背左脇上部に造立年月日。その下の部分、右から的場村 □戸八左衛門。その横に惣村中世話施主とあり続けて二名の名前が刻まれていた。


さらにその奥、山門の右手前に宝篋印塔と馬頭観音塔が並んでいる。


右 馬頭観音塔 文化3(1806)四角い台の上、大きな唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。


頭上にはっきりと馬頭。三面六臂の馬頭観音。向かって左は穏やかな顔立ちで、残る二面は忿怒相。馬口印を結び斧、法輪、弓矢を持っていた。


塔の右側面に造立年月日。その左下に 東 かわごへ。


左側面に武州高麗郡的場村。その奥に北 坂戸と刻まれている。


左 宝篋印塔 宝暦3(1753)江戸時代初期のものによく見られる隅飾型の笠を持つ宝篋印塔。風化も少なく美しい。


塔身部四面は蓮華座の上の月輪の中に梵字が刻まれていた。基礎正面「宝篋印塔」左側面に武州高麗郡的場村 念佛講中九十二人。ずいぶん大きな講である。願主 竝當村中男女。続いて發起人一名の名前が刻まれている。


右側面に造立年月日。続いて導師として法城寺のご住職の名前。裏面には「一切如来全身舎利」と刻まれていた。

 

的場交差点北東五差路 川越市的場1810[地図]


国道号線、初雁橋を渡り西に向かう。的場交差点の一つ手前の押しボタン信号の交差点の角の住宅の壁に小堂が立っていた。


右 地蔵菩薩立像。風化が進み損傷が著しい。


顔はつぶされていて、錫杖を持つ手の先も欠けている。体の真ん中の黒い線はコールタールだろうか、首が補修されているのかもしれない。


下部も今までに見たこともないような様子。お地蔵様の足元はコンクリートで塗り固められていた。蓮台もかなり傷み、さらにその下の石塔部はもともとこんな形なのか、まんなかがくびれている。下の四角い台にも銘は見当たらず造立年など詳細は不明。


左 馬頭観音塔。立派な唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面に三面の馬頭観音像を浮き彫り。こちらも石塔部の痛みが激しく、真ん中から下に行くにしたがって細くなっていた。石塔の上部がしっかりと残っていることから、下のほうは自然に細くなったものとは思えない。溶け崩れたようなその様子は、今までいろいろなところで見てきた「塩地蔵」を思い出させる。


怒髪の中に馬頭。三面は様子は定かではないが忿怒相だろう。目を凝らしてやっと六臂が確認できた。


両側面と裏面も写真のような状態、結構深い穴があいていてその表面は溶けだしていた。隣の地蔵菩薩塔と同じくこちらも銘は見当たらず残念ながら詳細は不明である。

的中観音 川越市的場1230[地図]


県道15号線を西に向かう。的場交差点を過ぎて250mほど先、交差点の北東の角に小堂が立っていた。隣に石碑が立っていて、その解説によると的場中の馬頭観音ということで「的中観音」と呼ばれるらしい。


小堂の中 馬頭観音立像 宝暦14(1764)大きな舟形光背を持つ。


三面六臂の馬頭観音像。なぜか顔の周りは黒くなっていてはっきりしない。合掌手以外は戟、未敷蓮華、斧、羂索を持っていた。


塔の右側面に造立年月日。その横に「奉造立念佛供養」念仏供養塔として造立された馬頭観音である。


塔の左側面には武刕高麗郡的場村新田講中と刻まれていた。

 

的場共同墓地 川越市的場792東[地図]


県道15号線をさらに西に進むと関越道を越えて的場から笠幡に入る。関越道の200mほど手前、道路右側の細い道に入りしばらく進むと左手に共同墓地があった。入口近くに二つの小堂が立っているのが見える。


右手前の小堂の中、六地蔵菩薩立像 安永3(1774)丸彫りの六体のお地蔵さまは大きな欠損無く、蓮台、石塔、台も揃っていて、全体に統一感がある。


六基の石塔の正面にそれぞれ銘が刻まれていた。右端には世話人 新田とあり四名の名前。


2番目には「念佛助力的場村惣村中」


3番目には中央に願主とあり、右に新田斎戒講中、左に男女貳拾三人。


4番目は 導師 的場山法城十世圓瑞。


5番目は壹躰施主 爲二親菩提 下沢貞閑尼沙弥。


左端 武刕高麗郡的場村、続けて紀年銘が刻まれている。


奥の小堂の中には三基の丸彫りの地蔵菩薩塔が南向きに並んでいた。


右 地蔵菩薩立像。錫杖の先と宝珠を欠く。銘が見当たらず詳細は不明。ここに並ぶ三体の地蔵像はなぜかいずれも顔がすすけたように黒くなっていた。


中央 地蔵菩薩立像 宝暦7(1757)こちらは錫杖・宝珠ともに健在。像も石塔もひとまわり大きくひときわ高くなっている。


塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「念佛供養」両脇に造立年月日。右側面に武刕高麗郡川越領的場村。


左側面には施主 中新田講中と刻まれていた。


左 地蔵菩薩立像 寛政5(1793)こちらもすすけた顔をしているが、どことなくユーモアのある優しい顔立ちをしている。


塔の正面中央「延命地蔵大菩薩」両脇に造立年月日。右側面に武州高麗郡 的場村 願主 小川一家中と刻まれていた。


六地蔵の小堂の奥、ブロック塀の前に多くの石塔が並んでいる。手前から途中のブロックの仕切り壁までは六基の墓石が続く。


仕切りのすぐ奥 馬頭観音塔 嘉永7(1854)駒型の石塔の正面に馬頭観音立像を浮き彫り。風化に加えて人為的なものと思われる損傷もあり、一面であること、合掌手だけは確認できるが、六臂なのかどうか、像全体の様子ははっきりしない。


塔の左側面に造立年月日。その横に願主は個人名が刻まれていた。


右側面は隙間が狭いが、手前に坂戸道と見える。資料には坂戸柏原 道となっていたが、奥のほうの銘はかすかに見えるだけで読み取ることはできなかった。


その隣 庚申塔 享保元年(1716)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。像の両脇に造立年月日。右下に願主 浄回、左下に施主は個人名が刻まれている。本格的な青面金剛庚申塔を見るのは久しぶりで、なんだか懐かしいような気持ちになった。川越市全体を考えると、青面金剛庚申塔は東部に比べて西部ではかなり少なく、特に入間川を渡った先の地域、川越の北西部には数えるほどしかない。この地域に特徴的なのは馬頭観音のほうで、馬の供養のための文字塔の馬頭観音塔だけでなく、本格的な像塔、それも三面六臂の立派な馬頭観音塔を多く見ることができる。そのほとんどは講中によって造立されたものであった。


足元の両脇に二鶏を半浮彫り。邪鬼は無く、下部には正面向きの三猿が彫られている。


ひとつおいてその奥、馬頭観音塔。角柱型の石塔の正面に「馬頭觀世音」他に銘がなく詳細は不明。ここまでシンプルなのもまた珍しい。