庚申橋南路傍 川越市笠幡218向い[地図]
県道15号線を西に進み、関越道の500mほど先の信号交差点を右折、川越線の踏切を越えて北へ向かう。南小畔川に架かる庚申橋の手前、道路左側のベニヤの小屋の脇に二基の石塔が並んでいた。
左 馬頭観音立像
寛政3(1791)舟形光背に三面六臂の馬頭観音像を浮き彫り。塔全体に白カビがこびりついている。
頭上に馬頭。白カビも多く三面とも表情は確認できない。光背上部、両脇に造立年月日。
足元の部分には右から武刕 高麗郡 笠幡村 施主 大町中 願主
□忍と刻まれていた。
右 庚申塔 舟形光背に日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。光背の縁が風化の為に欠けている。日月の間に「庚申」光背右脇に造立年月日。左脇に武州高麗郡笠幡村 大町 施主十六人。
風化の為に顔などもはっきりしないが彫りはしっかりしている。合掌手以外に下の手には弓矢、上の手のほうは左手にたぶん宝輪、右手には矛とか斧とかをよく見るが、こちらは長い柄のついた槍を持つ。
足元に無表情でうずくまる邪鬼。その下に三猿。中央の猿が正面を向き、両脇の猿は内側を向いて座っていた。
大町自治会館 川越市笠幡227[地図]
庚申橋の南から東に入って100mほど先、突き当りを右に折れると左側に大町自治会館が立っている。敷地の南側のブロック塀の前に五基の石塔が並んでいた。
右から 石橋供養塔
享保20(1735)舟形光背に聖観音菩薩立像を浮き彫り。
観音様の顔はつぶれている。光背右脇に「石橋供養爲二世安樂」左脇に造立年月日。地元の人の話では、この石橋供養塔、昭和30年ころ小畔川方面の水田の区画整理が行われ、それに伴って廃された用水に架かっていた石橋の脇に立っていたもので、区画整理の際にその石橋の石といっしょにこちらに移されたのだという。
その隣
地蔵菩薩立像。石塔部は風化が進み、紀年銘などは確認できず詳細は不明。首に補修跡がある。
背面に銘があったが隙間が狭く全部は読めなかった。中央に「奉唱満阿弥陀・・・・」念仏供養塔だろうか。
続いて角柱型の石塔
弘化2(1845)正面は剥落、銘は残っていなかった。左側面に造立年月日。右側面、木の枝の陰から覗くと願文らしきものがあり中に念佛衆生・・・と見える。
その隣
地蔵菩薩坐像。像だけが地面にじかに置かれていた。錫杖、宝珠ともに欠けていて、頭部はあとから石を載せただけで本来のものではないようだ。
左端
地蔵菩薩坐像。隣の坐像と大きさも全体の様子もよく似ている。ただこちらは四角い台と角柱型の石塔の上に載っていて、それだけでなんとなく立派に見える。
角柱型の石塔は真ん中がくびれるような形で、先日見た的場五差路の小堂の中の地蔵塔、馬頭観音塔を思い出される。この石塔の正面をよく見ると薄く細かい銘が確認できた。真ん中のくびれた部分は完全に銘が削れて無くなっているが、上下はかすかに残っていて吉田村中など多くの村の名前が刻まれているようだ。両側面も同じような様子で、合わせて100近い村になる。裏面の銘はやはり隙間が狭く読みにくかったが、やや大きな文字で、中に下宿三十五人という部分は確認できた。下の台の正面には施主
大町中 供養師 延命寺 □□と刻まれている。かってにまとめてみると、延命寺のご住職の呼びかけで、大町下宿が中心になってこの地蔵塔(肝心の銘が残っていないため確定できないが、なんらかの供養塔)が造立され、その際近隣の村の助力があったということになるだろう。なんの裏付けもないが、多くの村の助力ということから考えると「石橋供養」が有力かと思われるのだがどうだろうか?
延命寺 川越市笠幡4451[地図]
県道15号線の笠幡団地入口交差点から北へ向かい、川越線を越えて少し進むと道路左側に延命寺の入口があった。長い参道の先に山門、その先に本堂が見える。参道左脇に朱塗りの小堂が立っていた。
小堂の中 聖観音菩薩立像
明和7(1770)舟形光背に浮き彫りされた観音様、左手に未敷蓮華を持ち、右手をそのつぼみにかざすようにしている。光背右脇に造立年月日。その横に「奉讀誦大乗普門品供養」左脇には「奉造立正観音自在尊」さらにその横に講中笠幡村蔵ヶ谷戸二十四人□言と刻まれていた。
山門を入ると、参道左側に多くの地蔵塔が並ぶ堂が立っている。
堂の中、右側には如意輪観音塔の左右に六基の地蔵菩薩塔「六地蔵塔」が並ぶ。この形は大袋の東陽寺など、これまでいろいろなところで見かけた。
如意輪観音塔
明和4(1767)四角い大きな台の上に反花付きの台、その上の角柱型の石塔の上に敷茄子、蓮台と続き、二臂の丸彫り如意輪観音坐像が載っていて、その高さは2mを超す。反花付きの台の正面には梵字16文字が刻まれていた。
石塔の正面、梵字「キリーク」の下「如意輪観自在尊」両脇に造立年月日。右側面に當院現住 豎者法印良寛代。左側面には當村名主とあり二名の名前。
下の台の正面に施主
十名ほどの名前、右側面に村々勧化巡行者とあり、その脇に八名の名前が刻まれていた。延命寺の住職の呼びかけに応えて村の名主が中心になって多くの人たちが協力してこの石塔を造立したということになるだろうか。
右の三尊。長方形の台の上に三体の丸彫りの地蔵菩薩立像が並び、それぞれの前の部分に施主名が、右は
蔵ヶ谷戸中、中央は 道目木 半沢中 隠ヶ谷戸中、左は 上野 水村・・と個人名が刻まれている。
左の三尊。こちらは目の前に大きな賽銭箱が置かれていて、台の銘はその左右しか見えなかった。右のほうに施主とあり、上野、申ヶ谷戸などから4人の名前、左もやはり4人の名前が確認できる。左右の三尊ともに紀年銘は見当たらなかったが、中央の如意輪観音塔と同じ時期に造立されたものだろうか。
六地蔵の左隣 地蔵菩薩立像
文政6(1823)丸彫りの地蔵菩薩像は欠損なくきれいな状態を保っていた。
二段の台の上のほうの台の正面に「念佛講中」下のほうの台の正面に「地蔵大菩薩・・・」で始まる願文。その最後に造立年月日が刻まれている。
続いて地蔵菩薩立像
文化3(1806)像も石塔も立派でここではひときわ大きい。
石塔の正面に「覺翁貞心近住尼」右側面中央に「近郷勧化供養」その右脇に當邑發智・・・母、左脇に造立年月日。左側面には20文字の願文が刻まれていた。
左端 地蔵菩薩立像
天保15(1844)こちらも丸彫りの地蔵像だが、全体にひとまり小さい。
石塔の正面に戒名、両脇に紀年銘。墓石と思われる。左側面に笠幡村とあり個人名が刻まれていた。
地蔵堂の左、馬頭観音の文字塔
大正11(1922)塔の左側面に施主は個人名が刻まれている。
その隣 宝篋印塔
宝暦4(1754)隅飾型の笠を持つ。塔身の四面に梵字、基礎の正面に「宝篋印塔」台の側面にたくさんの戒名が刻まれていた。
上野公会堂 川越市笠幡3685-17[地図]
県道15号線、笠幡駅から200mほど西の笠幡交差点で道は左右に分かれる。左の道は県道261号線で南西に進み、やがて狭山大橋方面に出る。右の道を直進、坂道を登ってゆくと200mほど先の信号機のあたり、道路左側に上野公会堂があった。
公会堂の入口の左手前、ブロック塀の前に五基の石塔が西向きに並んでいる。他の石塔と違って右の地蔵塔だけは台を共有していない。こちらはあとからうつされてきたものだろうか。
左から 観音霊場順礼供養塔
安永2(1773)隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、その中に「奉納 秩父 西國 坂東 順礼供養塔」左の枠の部分に造立年月日。
塔の右側面は無銘。左側面には武刕高麗郡笠幡村とあり、二名の名前が刻まれていた。個人で造立された供養塔らしいが、他の地域に比べて、入間川を渡ったこちらの地域では、講中、個人問わず、順礼供養塔、納経供養塔を多く見かけるような気がする。あとでまた調べてみたい。
左から2番目 十一面観音立像
明和元年(1764)左手に蓮を持ち右手は与願印。資料では聖観音とされているが・・
光背右脇 武州高麗郡笠幡村 鳥ヶ谷戸
上野。左脇に造立年月日。その下に講中十八人。
ふくよかな顔立ちの観音様。頭上の様子からやはりこちらは十一面観音と考えたい。聖観音=正観音、多面あるいは多臂の観音様は「変化観音」であって「正観音」ではないと思う。
3番目 大型の丸彫り地蔵菩薩立像
宝永3(1706)多少の白カビはあるが尊顔もふくめて大きな損傷はない。
背面に銘が刻まれていた。中央、梵字「カ」の下に「奉造立地蔵大菩薩」右脇に造立年月日。左脇、施主
月待講人数廿四人。さらに上野 鳥ヶ谷戸中と刻まれている。
4番目 大きな四角い台の上 駒形の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音像
寛政3(1791)馬口印を結び、上の手には剣と宝輪、下の手には斧と数珠を持つ。顔のあたりは白カビが多く、三面合わせて台形の頭部のようで面白い。
塔の左側面 武刕高麗郡笠幡村 上野 鳥ヶ谷戸
講中。近づいて見ると三面ともに忿怒相、頭上には馬頭が確認できる。
右側面
中央に「奉讀誦普門品供養塔」両脇に造立年月日。普門品=観音経で、普門品供養塔は聖観音を主尊とすることが多いが、こちらは馬頭観音を主尊とする普門品供養塔ということになる。
台の正面と両側面に合わせて30人ほどの名前が刻まれていた。
右端 橋供養塔
文化8(1811)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。右脇に「奉建立橋供養」左脇に「念佛講中」
塔の右側面に造立年月日。その下に世話人二名の名前。左側面には武刕高麗郡笠幡村 上野
鳥ヶ谷戸 黒濱 豊人と刻まれていた。最後の黒濱 豊人はこのあたりの字名か、人の名前かちょっとわからない。
田中踏切手前枝道路傍 川越市笠幡3621[地図]
上野公会堂から県道15号線を西に進み600mほど先の信号交差点を越えて少し行くと日高市高萩に入る。この交差点の100mほど手前、道路右手の枝道に入り斜めに進んでゆくと左手の住宅の塀の前に石塔が立っていた。その立ち位置の関係で県道15号線から川越線の西部踏切のところまで進んだ時には石塔は見えず、引き返して初めてその存在に気付いた。
馬頭観音立像
天明元年(1781)駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音を浮き彫り。白カビは比較的少なく、像の細部まではっきりしている。三面のうち中央は三眼忿怒相。その頭上に馬頭がくっきり。ふっくらと馬口印を結び、上の手に剣と宝輪、下の手には斧と数珠を持つ。
塔の右側面中央「奉造立馬頭觀世音菩薩」その両脇に造立年月日。こちらから見える顔は穏やかな慈悲相だった。
左側面には武刕高麗郡笠幡村
講中とあり、その下の部分に鳥ヶ谷戸中、黒□、上□村、□ヶ谷戸中、下高萩村中と多くの村の名前が刻まれていた。こちらから見える顔は忿怒相だが三眼ではない。彫りは丁寧で本格的な馬頭観音塔と言っていいだろう。
その奥に小さな石橋供養塔
享和元年(1801)彫りが薄くなっていて銘は読み取りにくいが角柱型の石塔の正面中央に「石橋供養塔」両脇に造立年月日。塔の左側面には左 川越?
右側面に右 入間とあり、道標になっていた。
田島橋ほとり 川越市笠幡2863東[地図]
川越線西部踏切から北へ向かい、北小畔川の田島橋を渡って右折、土手道を行くとすぐ左手に愛宕神社があり、その周りは墓地になっていた。神社の敷地内に小堂が立っていて、中には2基の地蔵塔が祀られている。
左 地蔵菩薩立像
宝永7(1709)きれいな形の舟形光背に浮き彫りされたお地蔵さまは眉目秀麗、300年の時を経てなお美しい。
光背右脇に造立年月日。左脇に施主 九人
笠幡村上□き?と刻まれていた。
右 地蔵菩薩立像
延宝5(1677)こちらの光背は風化の為だろう、ごつごつした感じを受ける。
丸い顔のお地蔵様。光背右に「□月待供養塔」左脇に造立年月日。貴重な「月待供養塔」である。
光背右下に常□村、左下に施主、足元の部分に七人と刻まれていた。