大中居・高島・八ツ島の石仏

高松寺墓地 川越市大中居314[地図]


墓地の奥、北のブロック塀の前に大小12基の石塔が並んでいた。ここに並ぶ7基の像塔は、珍しいことに地蔵塔を含まず、十一面観音、千手観音など、とてもバラエティに富んでいる。


左端 庚申塔 寛文13(1673)上部がせり出した大きな舟形光背に四臂の青面金剛立像を浮き彫り。かたい石材のおかげで風化も少なく、彫りは細部までしかり残っていて美しい。


日月雲の下、髑髏の首輪をかけてしかめ面の青面金剛。四臂というのは珍しい。しかもその二組の腕は体の前ではなく光背のほうに、両手を広げた形で彫られている。このタイプの庚申塔を以前さいたま市緑区井沼方の薬師堂墓地で見たことがあるが、これも大変珍しい。法輪。羂索などを持つその腕に蛇が巻き付いていた。光背両脇に造立年月日。その下、右に「本成」左に薄く見えるのは「願主」か?


青面金剛の足の両脇にかなり立派な二鶏が彫られている。足元には屈服した邪鬼。さらに正面向きの三猿。三猿の下の部分、両側面と合わせて20名ほどの名前が刻まれていた。



2番目 聖観音菩薩立像 貞享3(1686)二段の台の上に丸彫りの観音菩薩像が乗る。観音様は合掌していた。


上の台の三面に銘がみえる。右側面に6名、正面に7名、左側面に3名、合わせて16名の名前。左側面の奥のほうに造立年月日が刻まれていた。


3番目 十一面観音坐像 天明4(1784)四角い台の上に角柱型の石塔、さらに台を乗せてその上に丸彫りの十一面観音坐像。石塔の正面、中央に「本地十一面觀世音菩薩」上部両脇に大山 石尊とあり、ここでは十一面観音を大山・石尊権現の本地仏としているようだが、一般的には大山・石尊権現の本地仏は不動明王とされている。


左手に蓮華を持ち、右手は与願印。頭上に白カビに覆われていくつか顔が彫られているが、実際には9面か?


塔の右側面に造立年月日。左側面には施主とあり、その下に當邑中。さらに世話人三名の名前が刻まれていた。

 
4番目 石橋令七観音供養塔 寛政6(1794)角柱型の石塔の正面、上部に聖観音菩薩坐像を浮き彫り。その下中央に「石橋令七観音供養塔」右脇に造立年月日。左脇に武州入間郡大中居邑。石橋供養塔であることは間違いないが、その石橋を守護するものとして七観音を供養したものだろうか。


実際には石塔の正面と両側面にそれぞれ一体の観音菩薩坐像、合わせて三観音である。


塔の左側面には施主 世話人とあり、その下に8名の名前。右側面中央に「勧化□□近村」その右に名前がいくつか見えるが正確には読み取れなかった。左には鴨田村、小中居、新河岸と三つの「近村」から4名の名前。「橋」が地域のネットワーク、交通の分節点であることから、石橋供養塔はこのように近隣の村の人たちの助力によって造立されることが多い。


5番目 馬頭観音立像 安永2(1773)駒形の石塔の正面 三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。白カビが多い中、頭上には馬頭がはっきり見える。馬頭観音の足元に世話人二人の名前が刻まれていた。


右側面に造立年月日。左側面には武州入間郡大中居村と刻まれている。横から見てみると馬頭観音の左右の顔もやはりのっぺらぼうだった。


6番目 千手観音坐像 安永2(1773)こちらもカビが多く、風化も進み銘が読みにくいが、左側面にかすかに紀年銘が残っていた。


光背に7組の腕、体の前、胸前で合掌する手、腹前で宝鉢を持つ手、全部で18臂だろうか?千手観音の石仏では、さすがに千の手を表すことは難しく、このあたりが限界なのだろう。


7番目 双体道祖神。道祖神は長野県あたりではとても多いらしいのだが、埼玉ではあまり見かけない。丸い光背両脇に文字らしいものが見えるが全く読み取れず、詳細は不明。


最後に明治時代の馬頭観音の文字塔三基、さらに昭和時代の牛頭観音塔二基、いずれも個人によって造立されたものだった。

 

高松寺薬師堂 川越市大中居314[地図]


県道113号線、南古谷駅の西の踏切で川越線を越え200mほど先、細い道を斜め右に入って500mほど進むと高松寺の入口に出る。目の前に薬師堂が立っていて、その裏に墓地がひろがっていた。左奥に本堂、その裏は大中居集会所になっていて、前回見た墓地奥の石仏群は実際には境内北西の集会所の入口から入ることになる。薬師堂の入口両脇に石仏が並んでいた。


入口左側、地蔵菩薩立像 享保18(1733)丸彫りの像は下の台の部分と色が違っていて、像だけあとからたてられたものかもしれない。


蓮台の下の台の正面中央「所願成就之處」両脇に造立年月日。右端に施主 當村中。左端に願主一名の名前が刻まれていた。


その隣 地蔵菩薩立像。かなり破損したものらしく、銘なども確認できず詳細は分からない。


続いて六地蔵六面石幢 延享3(1746)厚い笠の下、六面に六地蔵像を浮き彫りした石幢。像の下には戒名、「先祖代々菩提」などとあり、施主はご夫婦の名前が刻まれている。


個人的な供養塔ではあるが、自家以外、村の童男・童女・諸聖霊、「三界萬霊」のための造塔ということで、村の長、名主さんのような立場の家なのだろうか。


入口右脇 雨除けの下に地蔵菩薩立像 宝暦12(1762)大きな台の上に反花付きの台、石塔の上に敷茄子・蓮台、さらに丸彫りの地蔵像という本格的な構成。総高3m近くなる。


塔の正面「奉建立地蔵大菩薩」右側面に「乃至法界平等利益」続いて造立年月日。最後に大中居村と刻まれていた。


左側面に施主とあり當村講中、さらに願主三名の名前が刻まれている。

薬師堂墓地 川越市小中居949[地図]


宿中央通り、川越東中学校を過ぎて200mほど先のコンビニのある交差点を右折、しばらく進むと左側に薬師堂墓地の入口があった。正面に立つ仏堂が薬師堂である。


薬師堂の右手前、六地蔵の小堂の脇に如意輪観音塔が立っていた。


月待供養塔 寛文10(1670)舟形光背に二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。塔はところどころ白くなっている。


光背右脇に造立年月日。その横に「奉建立月待供養」光背左脇の銘は読みにくい。顔の横 武州日東郡古谷小中居村、さらにその隣に施主と見えるが、名前などは読み取れなかった。


薬師堂の左手前にも石塔が並んでいる。


雨除けの下 庚申塔 享保16(1731)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。合掌した手の先が破損していた。


塔の表面はやや摩耗しているが、銘はしっかり読みやすい。光背右脇に入間郡小中居村。左脇に造立年月日。像の彫りは厚く本格的。頭上に蛇がとぐろを巻いている。


足の両脇に二鶏。雄鶏が片足をあげていて面白い。邪鬼は腰を高く上げて青面金剛の足元でにらみを利かせる。三猿も非凡。左の見猿は左手に桃果を持つ。三猿の下に6名の名前が刻まれていた。


その隣 こちらも雨除けの下に丸彫りの地蔵菩薩立像 明暦2(1656)宝珠は摩耗しておにぎりのよう、錫杖もそっくり欠けている。


背面に銘が刻まれていた。中央「奉供養念佛之地蔵也」右脇に武州入東郡河越荘古谷小中井村。「入東郡」は「日東郡」とともに時々見かける。読みはおなじ「にっとうぐん」らしい。左脇に造立年月日。明暦2年造立の貴重な古仏で講中仏なのだが、なぜか資料には載っていなかった。

小中居公民館墓地 川越市小中居912[地図]


宿中央通り、薬師堂へ向かう交差点のさらに1町ほど北、道路右側に小中居公民館がありその裏が墓地になっていた。公民館の奥に水桶置き場があり、その脇が墓地の入口になる。


桶置き場の裏に比較的新しい六地蔵。その脇に大きな卵塔をはじめ10基ほどの石塔が集められ、奥右の二基が馬頭観音塔だった。


左 馬頭観音塔立像 享和元年(1801)駒形の石塔の正面に二臂の馬頭観音像を浮き彫り。塔全体に白カビが淡雪のように積もっている。足元の部分、正面に小中居 施主 神田 □源治と刻まれていた。


像の左脇に造立年月日。忿怒相の馬頭観音。逆巻く髪の中に大きな馬頭。ふっくらと馬口印を結ぶ。


右 馬頭観音塔。紀年銘が見当たらず造立年不明。角柱型の石塔の正面上部、丸く彫りくぼめた中に馬頭観音坐像を浮き彫り。


三面六臂忿怒相。小さいながらも細かくしっかりとした彫りで、頭上に馬頭も見える。


その下の部分、上のほうは右から松尾寺だろうか。あとは縦書きで、右端に武刕入間郡、左端に小中居村。中央の部分はところどころ文字は見えるがうまく読み取ることはできなかった。


塔の右側面は壁に密着していてのぞくことはできない。左側面 左 ふるいちミち?引又道。右下にセハ人とあり六名の名前が刻まれている。


墓地に入ってすぐ左に入る。公民館の真後ろあたりの個人のお墓の中に板碑型の三猿庚申塔 延宝4(1676)が立っていた。


古いものだが石材が硬く良質なために、銘はクリアに残されている。右端に「奉□□庚申者三如来四菩薩・・・」と刻まれていた。基本的には墓石なので、戒名があったり、いくつか紀年銘があったり、「逆修」の文字なども見えるが、左端に于時延寶四と刻まれていてこれを造立年とすべきだろう。元禄などの紀年銘もあるが後刻されたものだろうか?

下部に素朴で大ぶりな三猿。その下に内田 □右衛門? 爲□□也と刻まれていた