渋井公民館 川越市渋井705[地図]
富士見市東大久保から新河岸川を越えてすぐ、左岸沿いの細い道を西に進むと途中に渋井公民館がある。その隣に観音堂が建っていた。
観音堂の前に石塔が並んでいる。隣には遊具のある空き地。その向こうには共同トイレがあった。写真左に新河岸川の土手が見えるが、川の向こうはふじみ野市になる。
左端 地蔵菩薩立像
宝暦10(1760)四角い台の上に石塔、蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。錫杖はそのほとんどが欠けている。頭部も補修跡があり、顔は目鼻だちがはっきりしない。
塔の正面中央に「澁井村中」両脇に造立年月日。右側面に二つの戒名が刻まれているが、「村中」による造塔なので、個人的な墓石というわけではないようだ。
手水石を挟んで、馬頭観音の文字塔。こちらは風化が著しく詳細は不明。表面が溶けかかっているが、正面の文字は「馬頭観世音」だろう。
その隣 庚申塔
貞享5(1688)江戸時代初期にしか見られない「三猿庚申塔」上部を欠き、塔の表面はやや丸くなっていた。
中央に造立年月日。右脇に當村施主、左脇に慈眼寺□□住□。銘は薄くなっていて読みにくい。
主役の三猿は大きく、どこか温かみを感じる。三猿の下の部分には3名の名前が刻まれていた。
蓮光寺
川越市渋井248[地図]
渋井公民館から西に向かい、旧富士見有料道路を越えた先に、蓮光寺の入り口があった。入り口右側に寺導が立ち、大きな仁王門の向こうには本堂が見える。
寺導の右の植え込みの中、三界萬霊塔
安政3(1856)大きな基壇の上、台付きの石塔、敷茄子、重厚な蓮台と続き、その上に石仏が載っていた。
蓮台の上に座るのは阿弥陀定印を結ぶ阿弥陀如来坐像。ちょっと首を傾げ、うつむき加減で寂しげな様子。
塔の正面に「三界萬霊」両脇に天下太平 日月清明・佛日増輝
法輪常轉。左脇の八文字は見たことはないが仏語だろうか。塔の左側面に願主として 本城氏家臣 嶋田某とあり、右側面に先祖代々とあることから、武家が個人的に奉納したものかもしれない。
入り口左脇に 地蔵菩薩立像
安政3(1856)丸彫りのお地蔵さまは錫杖の柄の部分が剥落。塔の正面に「地蔵大菩薩」両脇に二つの戒名、さらに右側面に二つの命日が刻まれていて、こちらも個人の墓石と思われる。
仁王門の左脇、大きな丸彫りの地蔵菩薩立像
宝暦9(1759)二段の台の上に「萬霊等」と刻まれた石塔。さらに正面に花の彫り物を施した厚い敷茄子、蓮台の上に堂々たる立ち姿のお地蔵様。高さは2mを優に超える。
石塔の右側面に願文。台の右側面には、右から 施主
十方檀那中、中央に願主一名、さらに左端に爲先祖菩提と刻まれていた。
塔の左側面に造立年月日。台の左側面は木々に囲まれ薄暗く銘が読みにくいが、右端は別志?続いて福岡村から数人の名前、左端に各為先祖菩提と刻まれている。
穏やかな表情のお地蔵様。左手に宝珠だが、錫杖をもつはずの右手は施無畏印のように見える。これがもし施無畏印なら私にとって初見ということになる。
境内の南西の角に朱塗りの「総門」が建っていた。蓮光寺ではこの総門が現存するもっとも古い建築物だという。右手前、大きな木の陰に石塔が立っているのが見える。
結縁塔
享和2(1802)二段の台の上に角柱型の石塔、敷茄子、蓮台の上に石仏。こちらも2mほどになる。塔の左側面に願文。右側面に造立年月日。結縁(けちえん)は衆生が仏道にはいる縁を結ぶことを意味する。
蓮台の上に座るのは衣装の様子から、聖観音菩薩だろうか。柔らかなほほえみを浮かべていた。
阿弥陀堂墓地 川越市古市場20[地図]
渋井の蓮光寺のあたりから北へ向かい、古市場を抜けて今泉のほうに向かう道がある。新河岸川にかかる養老橋の100mほど東の交差点を越えて300mほど先、道路左側に阿弥陀堂の入口があった。入口からは参道右側に卵塔をはじめいくつかの石塔が並んでいるのが見える。
一番手前 十三仏供養塔
安永8(1779)角柱型の石塔の上、敷茄子・蓮台の上に丸彫り二臂の如意輪観音菩薩坐像。
如意輪観音像は首に補修跡があり、その補修された頭部も風化のため溶けてしまってのっぺらぼうだった。
石塔の正面中央「十三佛斎食供養塔」右側面に古市場村、左側面に講中。「斎食供養塔」というのは初めて見る。調べてみたが他に例がなくよくわからない。
右から2番目 庚申塔 宝永2(1705) 駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。像の両脇、白カビの中に造立年月日。下部両脇には剥落が見られ、ちょうどそのあたりに古市場村 講中と刻まれていた。
浮き彫りされた青面金剛像は丸彫りのように分厚い。頭上にとぐろを巻いた蛇を載せ、三眼の青面金剛、どんぐりまなこをいからせ、顎を突き出し、完全な忿怒相。合掌した手の先は風化のため崩れている。
下部も白カビが多い。青面金剛の足元に屈服した邪鬼。その下に比較的大きな二鶏を浮き彫り。二鶏がこの位置というのは珍しい。さらにその下に両脇が内を向く構図の三猿が刻まれていた。