萱沼公民館向かい路傍 川越市萱沼7215[地図]
びん沼川の近く、火の見の立つ萱沼公民館の筋向いの路傍に二基の石塔が北向きに並んでいた。
左 馬頭観音塔
文化10(1813)角柱型の石塔の正面「馬頭観世音」右側面に造立年月日。
左側面には「石橋十八箇所供養之塔」と刻まれていた。馬頭観音塔であり、石橋供養塔でもあるということになる。萱沼は東と南に蛇行するびん沼川が流れていて、川向こうの現富士見市や、さいたま市の飯田新田との間に多くの橋があったのだろう。土橋や木の橋が主流だった江戸時代に、より頑丈で高価な石橋に架け替えたとき、その安全を祈って石橋供養塔を建てたのだろう。江戸時代後期以降の馬頭観音塔のほとんどは文字塔で、その施主は個人の場合が多いが、この供養塔のように馬頭観音塔であり、石橋供養塔となると個人の造立とは考えにくく、「馬持中」などの講中によって造立されたものではないだろうか。
右 馬頭観音塔
文久4(1864)小さいが江戸時代最後?の貴重な馬頭観音の像塔。駒型の石塔の正面に馬頭観音立像を浮き彫り。風化が進み像全体に剥落も見られ、特に顔のあたりは故意に削り取られたような様子。それでも頭の上のふくらみは馬頭、合掌した手の形は「馬口印」と思われ、馬頭観音像と考えて間違いないだろう。
塔の右側面に造立年月日。左側面は剥落部分が多く、かろうじて読めるのは□沼
□尻萬造。こちらは願主、または施主名と思われる。
前田萱沼共同墓地 川越市久下戸3447[地図]
東大久保から南古谷を通って小仙波に向かう県道113号線は、南古谷付近までほぼまっすぐで、その両側には水田が広がっている。途中右へ入ると古くからあったと思われる道路が県道と平行して何本かあり、その道路沿いは集落で民家が並んでいる。久下戸氷川神社の400mほど西、道路から北へ入った先に墓地があった。
墓地入口前から左へ入る細い道があるが、それは私道のようで抜けられる感じはなかった。ちょっと覗いてみると墓地の西側の田んぼの中に道は続いていて、その左側に石塔が並んでいる。
石塔群の中に2基の庚申塔。地蔵菩薩塔など、他の石塔は墓石だった。
左から2番目 庚申塔
宝暦7(1757)角柱型の石塔の正面に「庚申」塔全体が白カビで覆われている。
よく見ると白カビの中「石橋貮拾箇所成就供養之塔」前回の萱沼で見た馬頭観音塔と同じように、この庚申塔も石橋供養塔を兼ねたものだった。石の橋を造るには相当の費用がかかり、その石橋が長く無事でいられるよう祈願してこのような供養塔が建てられたのだろう。
塔の左側面に「銘曰」から始まる願文。右側面上部に造立年月日。その下には久下戸村
下講中と刻まれていた。
その隣 庚申塔 天和4(1684)大きな唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 青面金剛立像
合掌型六臂。全体に風化が進み白カビも多い。
青面金剛の顔は今一つはっきりしない。上の左手は宝輪を持つことが多いが、ここでは蛇のようなものをつかんでいた。光背上部両脇に造立年月日。
光背下部、武州入間之郡
古谷久下戸新田萱沼同行拾八人と刻まれている。青面金剛の足元、邪鬼が磐座の上にうずくまり、その下に正面向きの三猿が彫られていた。
共同墓地北路傍 川越市久下戸2606[地図]
萱沼公民館から南古谷方面に向かう道の北路傍に石塔が立っていた。ちょうど上の前田萱沼墓地の真北くらいの位置関係になる。
馬頭観音塔
明治15(1882)角柱型の石塔の正面に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。彫りは薄くなっていて読み取りにくい。
塔の左側面、上部にしっかりと大きく船渡道。道標である。「船渡」はびん沼川にかかる「船渡橋」あたりのことだろう。その下には久下戸村とあり三名の名前が刻まれていた。
右側面には川越道。下部に4名の名前。合わせて7名になる。この地の馬持中だろうか。
久下戸前田共同墓地 川越市久下戸4508[地図]の南
南古谷中学校の東、田園の広がるのどかな風景の中に、ひときわ立派な長屋門が立っている。久下戸村で代々名主を務めた奥貫家。その門の南に久下戸前田共同墓地があった。入口左の門柱に「故奥貫友山之墓」と書かれたプレートがかかっている。江戸時代の中頃、この地域が大洪水に襲われた際、私財をなげうって48ヶ村、10万人もの人たちを救ったという。この共同墓地の中にあるその墓は埼玉県指定の旧跡とされている。
墓地に入ってすぐ左側、ブロック塀の前に三基の地蔵像が並んでいた。左の二基は墓石らしい。
右 地蔵菩薩立像
延宝5(1677)大型の舟形光背に錫杖、宝珠を手にした地蔵菩薩を浮き彫り。白カビにまみれているが、像は欠損もなく堂々とした姿をとどめている。光背右脇に武州入東郡古尾谷庄。左脇に造立年月日。
足元の蓮台の正面に久下戸村 敬白と刻まれていた。
墓地の外、左側のブロック塀に沿って細い道を進むと、その最後のところに三基の石塔が並んでいる。
右 馬頭観音塔
昭和32(1957)この地域では馬が農耕、運輸に大きな役割を果たしていたのだろう、個人の造立の愛馬の供養塔としての馬頭観音が多く見られる。
中央 馬頭観音塔
文化7(1810)駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。像全体に白カビが厚くこびりついていた。
頭上の馬頭はあいまい。合掌した形はふっくらとした馬口印。観音様らしいきらびやかな衣装をまとっている。
塔の右側面に造立年月日。左側面には細かい字で銘が刻まれているが白カビが多くうまく読み取れなかった。最後に奥貫氏と見えるが、名主さんなので、世話人とかだろうか。
左 馬供養塔
明治14(1881)駒型の石塔の正面に「愛馬の塚」左側面に奥貫本家と刻まれていて、こちらは奥貫家の馬供養塔である。
南古谷中学校脇墓地 川越市久下戸3755[地図]
南古谷小学校の敷地の北西、フェンスに囲まれた中に四基の石塔が並んでいた。
右から 六地蔵石幢
承応4(1655)宝珠を載せた六角形の笠の下、六面に六地蔵菩薩立像を浮き彫り。中台の下(石灯篭でいう竿部)は角柱形になっている。
立派な笠に守られながらも、さすがに古仏、白カビも多く風化が進んでいた。
竿の正面
中央に武州入間之郡・・・続きがほとんど読み取れない。右下に古尾谷、左下には久下戸邑。
裏面はさつきの枝が間近に迫っていて、ゆっくりと銘を観察することが難しかった。しかも石材の表面に細かい凹凸があって、文字が判然としない。それでも何日かかけて繰り返してみるうちにやっと読める部分も出てきた。右のほうに承應四乙未暦、中央「奉建立六地蔵日待講一結・・・・」とかろうじて見える。日待供養塔として造立されたものなのだろうか?左のほうの銘は願文だろうか、ほとんど読めなかった。
その隣 庚申塔
延宝7(1679)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面、上部を舟形光背の形に彫りくぼめて、外に日月雲。中に六臂の青面金剛立像を浮き彫り。笠の右側、一部が欠けている。
江戸時代初期の庚申塔なので、その構図はまだ定まっていない。六臂の持物もはっきりしているのは下の両手の弓矢くらいで、法輪らしきものは見当たらないし、前の両手の持物も剣・ショケラではなさそうだ。像の右脇「奉建立庚申」左脇は「講結施主」だろう。さらにその外の部分、右には造立年月日、左には武刕入間之郡古尾谷之庄久下戸邑と刻まれていた。
青面金剛は邪鬼の背中ではなく小さな磐座に直接立つ。その下、正面向きの大ぶりな三猿がやや大きな磐座の上に座っている。三猿の下、両脇に向き合う二鶏。その下にしっかりとは読み取れないが数名の名前が刻まれていた。
3番目 大乗妙典六十六部供養塔
宝暦7(1757)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、「奉納大乗妙典六十六部日本廻国」下に「供養塔」と続く。上部両脇に「天下泰平 日月清明」
塔の右側面に造立年月日。左側面 京都北山等持院門前念佛寺弟子 生國武州河越住 久下戸村 願主
浄譽蓮友と刻まれていた。
左端 馬頭観音立像
安永4(1775)舟形光背に六臂の馬頭観音像を浮き彫り。白カビが目立ち、一部様子がはっきりしない。あるいは八臂か?いずれにしても多臂像の変化観音であり、合掌した手の様子、頭上も破損があるが、その欠けた部分が馬頭と思われ、馬頭観音塔と考えたい。
塔の右側面は大きく削れており、銘などは確認できない。この角度から見ると観音様の頭上の塊の大きさがよくわかる。
左側面に造立年月日。続けて願主 上久下戸村 若者中と刻まれていた。