地蔵堂墓地 川越市かし野台1-12-47[地図]
入間川街道を狭山市方面に進み県道114号線を越えて600mほど先、道路右側にある氷川神社の手前を右折すると、氷川神社の裏に墓地があり、その中央あたりに小堂が立っていた。
小堂の中に卵塔をはじめ全部で六基の石塔が並んでいるが、講中仏と思われるものは三基。左から2番目の丸彫りの地蔵塔は童子、童女戒名が刻まれた墓石だった。
左端 地蔵菩薩立像
延宝9(1681)舟形光背の上部が欠け、尊顔は一部削れている。光背右脇に造立年月日。左脇に武刕入間郡藤倉大袋新田山城念佛講衆。
右下に敬白。足元の部分に七名の名前が刻まれていた。
コーナーのところに十一面観音立像
元禄16(1703)全体に風化が進み損傷が甚だしい。舟形の光背は縁が大きく欠け、銘も一部失われていた。
近づいて見ても像の様子ははっきりしない。頭部は故意に削られたのだろうか。貴重な石仏だけに実に惜しい。光背右脇に「奉造立十一面觀世音」
左脇上部に造立年月日。その下にも銘が見えるが難読。最後は「講中」と見えるのだがどうか?それにしても、こちらに安置されるまで、どういう経緯があってここまでの状態になったのだろう?
その隣 大乗妙典供養塔
享保16(1731)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中「奉納大乗妙典六十六部供養塔」両脇に天下泰平・國土安全。
塔の右側面中央に「懸渡石橋二ヶ所」石橋供養塔として造立されたものでもあるようだ。上部両脇に造立年月日。下部両脇に大袋新田
善男善女等と刻まれていた。
左側面、右端に勧化村々とあり、八段にわたって38の村の名前が刻まれている。一番上の段、右から大袋村、山城村、池邊村、豊田村、同新田。続いて七段に各5村、最後の段は大塚村、同新田、澤村となっていた。二か所の石橋の完成のために近隣の多くの村が協力したのだろう。こちらの石塔は「石橋供養塔」の意味合いが強いのではないだろうか。
山城公民館東墓地 川越市山城64[地図]
県道144号線の大東西小学校入口交差点から西に進んでゆくと、山城公民館の手前、道路左側に墓地があった。入口両脇のブロックの上に瓦屋根が架けられ、その中に石仏が祀られている。
左 大乗妙典供養塔
享保6(1721)角柱型の石塔の上に分厚い敷茄子・蓮台を重ね、その上に丸彫りの地蔵菩薩立像。
お地蔵さまは頬に傷があるが、それほど大きな損傷はなくきれいな顔をしている。ちょっとおちょぼ口でかわいらしい。宝珠は健在だが、錫杖のほうは上部がそっくりはがれて無くなっていた。
石塔の正面中央「奉納 六十六部 供養佛塔」上部両脇に造立年月日。下部に願主
孤心。塔の右側面には助力村々と刻まれている。
左側面、中央に月灯代。こちらは何を意味するのかは分からない。右下、高橋山城。「川越の石佛」の地図で見るとこの付近は高橋となっていて、山城は町名として現在も使われる。左下には念佛講□中と刻まれていた。
右脇のブロックの中には平成元年造立の地蔵菩薩立像。台に「水子地蔵尊」と刻まれている。
右のブロック塀の外に馬頭観音塔
嘉永元年(1848)駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」右側面に造立年月日。左側面は隙間が狭く銘は確認できなかった。
藤倉共同墓地 川越市藤倉2-3-1東[地図]
前回見た、かし野台の地蔵堂墓地の前の道をそのまま北へ道なりに300mほど進むと、交差点の手前東側に墓地があった。その真ん中あたり、雨除けの下に石塔が立っている。
大乗妙典供養塔
寛延4(1751)三段の台の上に角柱型の石塔、さらに敷茄子の上の蓮台に左足を立てて座る地蔵菩薩の丸彫り半跏坐像。台の三面に細かい彫りものが施され、大変凝った豪華なつくりになっている。
お地蔵さまは首をかしげているように見えたが、首にセメントで補修した跡があり、一度もげたものを直す時に傾いてしまったのだろう。錫杖の先も欠けてしまっているが、像の彫りは細かく丁寧。
塔の正面中央「奉納大乗妙典」上部両脇、天下太平・國土安全。右下に和泉國□ 願主
光譽善覺。左下に助力 念佛講中。右側面に造立年月日。左側面に武刕入間郡藤倉村と刻まれている。
墓地の入口にも二基の地蔵菩薩塔が北向きに並んでいた。
右 大乗妙典供養塔
天保4(1833)角柱型の石塔の上の地蔵菩薩坐像は頭部がもげたまま、蓮台に乗せた左足も蓮台ごとそっくり欠けているが、墓地中央の地蔵塔と雰囲気がよく似ている。下の石塔に世話人 當村中 同
新田とあり個人名が刻まれていた。普通はこの面が正面と考えられるが、塔全体を眺めてみるとこちらは左側面で、一度落ちてしまった地蔵像を載せ直した時に向きを間違えたものと思われる。
塔の正面中央「奉納大乗妙典日本廻國」両脇に天下和順・日月清明。右側面に造立年月日。続いて江戸小石川産とあり、施主二名の名前が刻まれていた。
左 地蔵菩薩立像
享保17(1732)顔に損傷はなく錫杖・宝珠とも健在。舟形の光背には一部白カビが見られるものの、銘は明快で読み取りやすい。右脇「石佛供養」その下に造立年月日。左脇に「念佛講中」続いて武刕入間郡藤倉村と刻まれていた。
藤倉天神社 川越市藤倉1-15-2[地図]
前回紹介した藤倉の墓地のある交差点から100mほど西のT字路を右折すると正面に大きな幟立てに挟まれて石の鳥居が見えてくる。藤倉の村社
天神社である。その入口左手、道路に向かって二基の石塔が並んでいた。
右 庚申塔 元文2(1737)四角い台の上、角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
剣・ショケラ持ち六臂。塔全体に厚く白カビがこびりついている。
近づいて見てもすべてが漠然としていてはっきりしない。かろうじて日月雲、剣、ショケラは確認できるが、銘らしきものは見当たらなかった。
足元に邪鬼の姿は無く、足の両脇に二鶏を線刻?その下に正面向きの三猿が白カビの中に並んで彫られている。
塔の右側面は全体を白カビに覆われていて、ところどころ文字らしいものが見えるが難読。
いろいろな角度からライトを当ててやっと銘が確認できた。右端に造立年月日。中央に「奉造立庚申供養塔」左脇に武刕入間郡藤倉村施主。
最下部に施主八名の名前が刻まれている。塔の左側面もほぼ似たような状態だが、文字らしいものは見つからなかった。
左 庚申塔
造立年不明。舟形光背と思われるが大きく欠けていてはっきりしない。右の庚申塔は白カビに覆われていたが、こちらはさらに塔全体に損傷が甚だしい
頭のあたりは溶けだしていて、顔の真ん中に鋭く深い穴があいていた。南大塚の西福寺の庚申塔を思い出す。さすがにこれは人為的なものだろう。明治時代の「廃仏毀釈」における仏像の破壊というと、首を欠いたお地蔵様をいろいろなところで見かけたが、このあたりではこういったやり方が多かったのだろうか?日月雲は確認できないが、どうやら青面金剛立像は合掌型六臂のようだ。光背右脇に武刕入間郡藤倉村。左脇に一月吉日。
足元に邪鬼と二鶏の姿は無く、正面向きの三猿だけが彫られていた。三猿の下の部分には七名の名前が刻まれている。
藤倉 猪鼻墓地 川越市藤倉2-27-17[地図]
藤倉の南西地区は以前は猪鼻村だったらしい。ちょっと西に行くともうそこは狭山市になる。この旧猪鼻村あたりからまっすぐ北へ、増形を通って入間川の土手道へ至る道がある。その一番南、道路から路地を西に入ったところに墓地があった。墓地の入口に小堂が立っていて、その奥に金毘羅神社、不動堂が並び、さらのその奥にも小堂が立っていた。写真右端にわずかに写っているのは猪鼻自治会館。
墓地入り口の小堂の中には五基の石塔が南向きに並んでいた。
右から 聖観音菩薩立像
寛延3(1750)縁の欠けた舟形光背に合掌型の観音菩薩像を浮き彫り。顔は風化の為かはっきりしない。光背右脇に「奉造立南無觀世音菩薩」左脇に造立年月日。右下に武州入間郡、左下に猪鼻 正本 兩村講中拾三人。観音様の足元に慈眼庵 願主とあり、安臾代 立之と刻まれている。
その隣 丸彫りの地蔵菩薩立像 文化5(1808)顔は風化の為かあいまいで、錫杖の先の部分が欠けていた。
塔の正面に造立年月日。左側面は無銘で、右側面に施主は個人名。戒名などは見当たらず、墓石ではないようだが、何のためにこのお地蔵様を造立したかは不明。ちょっと珍しいケースである。
続いて 地蔵菩薩立像
寛政9(1797)重量感のある尊顔。錫杖の先が欠けていた。
塔の正面 梵字「カ」の下に「念佛講中」右側面に造立年月日。左側面に大袋新田 猪鼻
生本と刻まれている。
その隣は戒名が刻まれた墓石。続いて左端、地蔵菩薩立像
宝永2(1705)縁の一部が欠けた舟形光背にバランスの良い地蔵菩薩像を浮き彫り。光背右上に武刕入間郡大袋新田之内 猪鼻村。左上に造立年月日。
下部の銘は光背に傷が多く読みにくい。右下には二行。日影□□□庭□風
錦□池鏡得成□□、意味は不明。左下、□□檀越爲菩提也□□。足元の部分にかなで十名の名前が刻まれている。
こちらが金毘羅神社、不動堂の奥の小堂。中には不動明王像が立っていた。
小堂の前の石灯篭
延宝3(1675)竿部正面に「奉造立念佛供養塔」両側面上部に造立年月日。下部両側面に施主 十七人と刻まれている。
小堂の中 不動明王立像
貞享3(1686)江戸時代も後期になると二童子を従えた「成田山」不動明王坐像が一般的だが、初期の不動明王像は独尊で立像が普通のようだ。火焔の光背を持ち、利剣と羂索を手にした不動明王。光背に銘は見当たらず、足元に台もないので詳細は不明と思ったのだが・・・
背面に銘が刻まれていた。中央に造立年月日。下部、左右に猪花村
不動。猪花村=猪鼻村、生本村=正本村、地名の表記はしばしば流動的である。
増形町境の用水路ほとり 川越市増形138裏[地図]
猪鼻から北へ向かう道を進み増形に入ってすぐ、道路東側にある枝道に入ると、用水路の細い流れのほとりに石塔が立っていた。本当に細い用水路だが、少し下流は赤間川、そのさらに下流は新河岸川になり、Google
mapはこの用水路を新河岸川と表記している。
石橋供養塔
享和2(1802)角柱型の石塔の正面に大きな字で「石橋供養塔」
塔の右側面に造立年月日。その左下に江戸道と刻まれている。
左側面に増形村願主 若者中。その右脇に 北 □□道、左脇に 東
川越道と刻まれていて道標になっていた。
増形T字路角 川越市増形104向[地図]
石橋供養塔のあたりから60mほど北の交差点を左折、細い道を進むとT字路に突き当たる。ここを右折してすぐ、交差点の角に石塔が集められていた。
交差点近く、道路に向けて七基の石塔が南向きに並んでいるが、そのほとんでは墓石だった。
右から2番目
馬頭観音塔。自然石に「馬頭觀世音」それ以外に銘は見当たらない。
奥のほう、雨除けの下に二基の石塔。右手前に石灯篭が立っていた。
庚申石灯籠。竿部正面に「奉納庚申」左側面に願主とあり個人名。紀年銘はなく造立年は不明。
雨除けの下、右 庚申塔
延宝8(1680)駒型の三猿庚申塔。風化の為に塔全体にぼんやりしている。
石塔の中央、日天・月天の間に「奉造立庚申供養爲二世安樂」両脇に造立年月日。
下部に正面向きの三猿。顔は摩耗していてはっきりしない。三猿の下の部分に十数名の名前が刻まれていた。
左 地蔵菩薩坐像
文久2(1862)円光背の根元から断裂したものか、補修跡らしいものが見える。
塔の左側面に造立年月日。その奥に施主として個人名が刻まれているが、その他の銘は見当たらなかった。