砂久保橋たもと 川越市今福1444南[地図]
県道6号線今福交差点から東へ進むと不老橋の西詰、おおきな欅の木の下に石塔が立っていた。
石橋供養塔
天明8(1788)大きな四角い台の上、駒型の石塔の正面上部に石仏の坐像を浮き彫り、その下に「石橋供養塔」このあたりは現在も県道6号線と8号線、二つの街道が交差するところで、昔から交通の要所だったようだ。それだけに不老川に架かる石橋は付近の地域の人たちにとって重要だったのだろう。調べてみると、20年ほど前、不老川の改修計画によってこの大ケヤキと石橋供養塔は撤去される予定だったのだが、近隣住民が反対しその要望に沿って欅の一部と供養塔は残されることになったという。
塔の上部に浮き彫りされた六臂の坐像、一部ではこれを青面金剛像としていたが、馬頭観音像ではないだろうか。頭上に見えるのが蛇の頭なのか馬頭なのか、ちょっと判断が難しい。「石橋」→交通→馬という流れで考えると馬頭観音のほうがしっくりくるような気がするのだがどうだろう?
その下、中央に「石橋供養塔」両脇に造立年月日。さらに下のほうに銘があるが右下は白カビがかぶっていて読みにくい。尾刕中嶋郡□□村
施主と見えるのだがどういうことだろう?左下に武刕入間郡今福村 世話人、砂久保村□□人と刻まれていて、このあたりどうもよくわからない。
塔の右側面にはたくさんの村の名前が刻まれていた。四段にわたって、各段に六つの村、合わせて24ケ村になる。彫りは薄く読みにくい。なんとか読める中に砂新田、大袋新田、扇河岸、新河岸、野田村など近隣の村の名前があり、中新田、堀金村、三ツ木村(狭山市の村)など、かなり遠方の村の名前もあった。
左側面には砂久保村、扇河岸、新河岸、今福村、砂新田などから七人の名前が刻まれている。
今福交差点 川越市今福933北[地図]
今福交差点は変則的な十字路になっているが、その信号機の下あたりに小堂が西向きに立っていた。
右 庚申塔 寛政10(1798)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
剣・ショケラ持ち六臂。
髪を逆立てた青面金剛、顔はつぶれている。小さなショケラがもものあたりにすがりついていた。
江戸時代後期らしく技巧的な作品。青面金剛の足元に体格のいい邪鬼が余裕をもってうつぶせに横たわる。邪鬼の両脇と下の部分に三猿。いずれも斜に構えリラックスして座る。下の言わ猿の両脇に二鶏。いままでに見たことのないようなユニークな構図になっていた。
塔の右側面に造立年月日。左側面に武刕入間郡今福村講中と刻まれている。
左 地蔵菩薩立像
元文2(1737)舟形光背、梵字「カ」の下にのっぺらぼうの貌をしたお地蔵様。光背は縁が凸凹で像も風化で彫りが丸くなっていた。光背右脇に大きな字で「奉造立念佛供養佛」左脇に造立年月日。さらにその横に武刕入間郡今福村と刻まれている。
今福地蔵尊 川越市今福772西[地図]
今福交差点から斜めに狭山市方面に向かう県道8号線。関越道を越えてすぐ、道路左側に小堂が立っていた。
ブロックの小堂の中に二体の丸彫りの地蔵尊像。左は平成7年に「今福地蔵尊講中」によって新たに建立されたものだった。
右 地蔵菩薩立像
宝暦2(1752)250有余年、幾星霜の風雪に耐えて村の人々を見守り続けたお地蔵様。さすがに損傷も甚だしく、尊顔は目鼻もつかないほど摩耗している。
下の台にたくさんの名前が刻まれていた。小堂内に掲げられた「今福地蔵尊由来」によると今福村施主三十人。台の上部一面に深く穿たれたくぼみ穴は、村の人々がこのお地蔵様に託した思いの深さを物語っているようだ。
明見院 川越市今福671[地図]
今福交差点から県道8号線を狭山市方面に進む。関越道を越えて400mほど先の信号交差点の手前、道路右手に明見院の入口がある。道路側に向けて小堂が立っていて、中に二基の庚申塔が並んでいた。
左 庚申塔。大きな舟形光背に日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。塔の上部は損傷が甚だしい。
光背左上の日天の下「青面」その左に十月吉日と銘が見えるが、光背の右上の部分がそっくり欠けていて、月天、造立年の銘は跡形もない。顔のあたりもなにやら念入りに削られ、悲惨な姿となっていた。
下部は比較的きれいでホッとする。青面金剛の足の両脇に二鶏を半浮彫。足元には手足の細い邪鬼と正面向きの三猿。三猿の下の部分に十人ほどの名前が刻まれていた。
右 庚申塔 安永2(1773)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
剣・ショケラ持ち六臂。頭上で蛇がとぐろを巻く。
足の右脇に施主 講中、左脇に願主
是眞。その下両脇に二鶏。足元に邪鬼と三猿。
塔の左側面に造立年月日。右側面には武刕入間郡川越領今福村と刻まれていた。
庚申塔の裏は広い駐車場で、その先に山門が立っている。
山門の手前左側に多くの石塔が並んでいた。
左端 六地蔵六面幢
元禄9(1696)笠付きの六面石幢の各面に地蔵菩薩立像を浮き彫り。その下に地蔵名。
後ろの面の下部、右に造立年月日が刻まれている。
続いて大きな阿弥陀如来坐像を囲むように丸彫りの六地蔵菩薩立像。阿弥陀如来像だけは敷茄子を持ち大きさも違うが、台の正面の銘を見ると様子がよく似ていて、あとから寄せ集めたのではなく初めからこのような形で建立されたものと思われる。六基の地蔵塔にはそれぞれ二つの戒名が刻まれ、命日は安永5(1776)から文化12(1815)にわたる。中央の阿弥陀如来塔には一つの戒名、その命日は文化11年だった。
その隣 地蔵菩薩立像
嘉永7(1854)大型の立派な地蔵塔だが、童女戒名が刻まれていて、個人の造立の供養塔である。
一番奥 弁財天塔
昭和52(1977)裏面に造立年月日。施主は個人名が刻まれていた。
山門手前右側、奥のほうに三基の石塔が並んでいた。
左 普門品供養塔
慶応2(1866)角柱型の石塔の正面に「普門品十萬巻供養塔」他の三つの面は無銘。本来は笠付きだったものと思われる。
台の右側面と正面、下部にそれぞれ21名の名前。左側面には世話人10名、続いて法印孝學とあり、最後に造立年月日が刻まれていた。
中央 如意輪観音塔 文化3(1806)角柱型の石塔の正面「如意輪觀世音」両脇に今福村
講中。二臂あるいは六臂の坐像はよく見かけるが如意輪観音の文字塔というのは珍しい。
塔の右側面に造立年月日。左側面には願主
三十三人、奇進十六人と刻まれていた。
右
馬頭観音塔。風化が甚だしく塔の上部が大きく欠けている。
三面六臂の本格的な馬頭観音立像。三面とも顔ははっきりしないが頭上の馬頭はかろうじて残っていた。六臂像だが、最後の手は弓矢を持たず、腹前で壺(玉?)を持つ。顔の右脇に銘が見えるが判読できない。左脇に造立年月日。申歳□月吉日は確かだが、その上の部分が曖昧。ライトを当てて何回か見てみたが、文政(政のツクリと偏が上下に)のようにも見える。とすると文政7(1824)だがこれはあまり自信はない。
足元の前出の部分、右に武州入間郡、中央に河越領今福村。左は人の名前だろうか?
山門を入って正面に本堂。その左に大きな墓地がひろがる。その入り口付近、大きな榧の木の下に二基の石塔が並んでいた。
右 馬頭観音塔
元文2(1737)舟形光背に六臂の馬頭観音立像。頭上の馬頭は明快。忿怒相でどんぐり眼をいからせ、口をへの字。像の右脇に造立年月日。左脇に施主は個人名が刻まれている。
左
馬頭観音塔。風化が著しく進み、塔全体に損傷が目立つのだが、なぜか頭上の馬頭だけはしっかりと残っていた。
観音像の貌は崩れ、あちこちに気泡?。合掌手を含め六臂。下左手の弓ははっきり。像の両脇、ところどころにかすかに文字が見える。右脇の文字は大正だろうか?右手前に立てられた「榧の木の由来」の石碑の文の中に『馬頭観音は火防の称号にて信仰せしも、大正時代馬頭講盛んなりし頃、境内の中庭に堂を立て、多数の馬主や信者でにぎわった』とあり、もしかしたらこの馬頭観音塔はその際に造立されたものかもしれない。風化の様子から考えるともっと古いものともおもわれるのだが・・・
中福交差点角 川越市中福391近く[地図]
県道6号線中福交差点の南東の角のところに小堂が立っていた。
小堂の中には二基の石塔。右 弁財天塔
享保元年(1716)風化は少なく美しい状態を保っている。駒型の石塔の正面 日月雲の下に鳥居冠六臂の弁財天坐像を浮き彫り。大きな円形の頭光背を負う。像の右脇に造立年月日。
塔の下部、武刕入間郡中福村とあり、続いて十数人の名前が刻まれていた。
左 地蔵菩薩立像
享保10(1725)錫杖の先が欠け、顔はつぶれている。こちらも円形の頭光背を負っていた。
像の右脇に造立年月日。左脇に武刕入間郡中福村講中拾三人と刻まれている。
酒屋のある交差点前 川越市中福547[地図]
県道6号線の中福交差点から南西に向かう。1kmほど先の十字路交差点、酒屋さんの前に二基の石塔が並んでいた。道路を隔てた向かいにも石塔が見える。
右
庚申塔。紀年銘が確認できず造立年不明。青面金剛のいない「三猿塔」であり、かなり古い時代のものと思われる。
舟形の石塔は縁があちこち欠け、塔の中ほどには断裂の跡も明らかで、残念ながら銘が不完全。中央「□造立庚申供養・・・」右脇に紀年銘だが、肝心の年号の部分が読み取れない。
正面向きの素朴な三猿の下の部分に六名の名前が刻まれていた。
左 庚申塔 宝永元年(1704)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。塔の縁が風化の為にかけているが、像のほうはそれほどでもなく、銘もきれいに残っている。
青面金剛と邪鬼はどちらも顔が削られていた。像の右脇に武刕入間郡中福村。左脇に造立年月日。
正面向きの三猿の両脇に二鶏を浮き彫り。その下の部分、右端に施主、左端に敬白とあり、その間に七名の名前が刻まれている。
道路を隔てて交差点の向いに弁財天塔が立っていた。川越に入って弁財天はほとんど見かけなかったが、中福交差点の小堂の中の弁財天とこちら、中福で立て続けにみることになった。
弁財天塔
享保13(1728)中福交差点の弁財天とほぼ同じ規模で、その様子もよく似通っているが、こちらは長く路傍にあったためか風化が進み摩耗している。鳥居冠の弁財天。やはり円形の頭光背を負っていた。像の両脇に造立年月日が刻まれている。
塔の下部、右端に武刕入間郡中福村施主とあり続いて八名の名前。最後に願主だろうか清浄海と刻まれていた。