志木市下宗岡の石仏

地蔵堂 志木市下宗岡2-3

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ここは見逃しやすい。一番わかりやすいアプローチとしては朝霞台方面から
宮戸橋を渡って200mほど先、コンビニの角を左に曲がって直進し、この道が
ゆるやかに左に曲がる地点の三差路の角。うっそうとした竹やぶに囲まれて
小屋のようなものが立っている。

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近寄って見ると檻にいれられたような状態で二体のお地蔵様が並んでいた。

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左 地蔵菩薩立像。志木市の指定文化財になっている。木造で室町時代の末から
江戸時代初めの作だという。

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右 地蔵菩薩立像 宝永2(1705)鉄の柵の為近づくことはできない。資料によると
像の左側面に年号が刻まれているらしいが細部は確認できなかった。

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ここは地蔵堂の跡地で墓地に庚申塔など貴重な石仏があるということだったが
みつけられなかった。何度目かに訪れた時、地元の人に尋ねると後の竹やぶの
中が墓地だったという。横から回り込みのぞいて見ると、ドクダミなど下草の
生い茂った先に石仏が立ち並んでいた。荒れ果てた光景である。思い切って足を
踏み入れようとしたが草の下にもいくつか石塔が倒れている。これ以上進むことも
できず今回はあきらめることにした。いつか整備される日がくるだろうか?

観音寺跡墓地 志木市下宗岡2-10

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上と同じように宮戸橋を渡って宗岡第三小学校の前を過ぎ、次の交差点を左折。
50mほど先で細い路地を左に入るとその奥に墓地があった。路地は近くの民家の
通路のような感じで、墓地の入口は見つけにくい。

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墓地の一番奥に、同じような規模の二基の石塔が並んでいた。

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右 三界萬霊塔 文政13(1830)塔の上には地蔵菩薩坐像。塔の正面に「三界萬霊塔」
左側面に字が見えるがほとんど読み取れなかった。あとで資料を調べると年号が
刻まれているらしい。下の台の正面には「念佛講中」と刻まれていた。

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台の右側面 磨耗している部分もあり読みにくい。水代 金五千分也か。あとの
三行は是□□□□、村村方□進、附□者也。結局わからない。

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このときは逆光状態で、左側面も非常に読みにくいが、全体に名前が刻まれて
いるようだ。右のほうに童女、施主細田某と見える。左上には世話人とあり、
三人の名前が刻まれていた。

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左 白井武左衛門供養塔 文化10(1813)大きな笠の下、塔身部は鉄製で、正面に
「大乗経」の文字が見える。台座正面中央には「白井武左衛門殿」その右脇に
用水開基佃堤、左脇 新田場堤築作と刻まれていた。宗岡村の洪水を防ぐため、
東西の新河岸川堤と荒川堤を結ぶ北側の佃堤、南側の新田場堤を築造し、
宗岡村の惣囲堤を完成させたという。川に囲まれ水害の多いこの地域において、
治水に傑出した業績を残した故人は神仏に等しい存在だったのだろう。


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台座の左側面 発願主 世話人 とあり3名の名前。右側面 助願主 三名主とあり、
やはり3名の名前が刻まれている。

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裏面中央に「浪華産自浄其意」右脇 寛政十二年入寺、左脇 文化十年塔建立と
刻まれていた。

 

大日堂 志木市下宗岡3-15-39

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県道40号線秋ヶ瀬橋の西、秋ヶ瀬運動公園入口交差点の手前で路地を右に
入ると、石の階段の向こうに大日堂が見える。

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階段の右手に二基の宝篋印塔が立っていた。写真左 宝篋印塔 明和2(1765)
側面に個人の戒名と宝暦年間の命日が刻まれている。

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写真右の宝篋印塔 享保4(1719)三面に渡り「宝篋印陀羅尼経云・・・」で
始まり「・・・乃至法界平等普潤敬白」で終わる長い銘文が刻まれている。
続いて年号。最後に武州入間郡宗岡村 遍照山 大日堂と刻まれていた。

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階段を上りきった左、雨除けの下に三基の地蔵菩薩立像。左から天明4(1784)
享保12(1727)、明和3(1766)の銘があるがいずれも個人の戒名が刻まれていた。

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堂の左から奥に墓地が広がっている。一番奥に六地蔵菩薩立像 明治30(1897)
それぞれの台の正面に地蔵名が刻まれていた。左の二基の台は全体にかなり
崩落が見られる。

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右から3番目、「延命地蔵」と刻まれた台の側面に銘があった。右側面に
「六地蔵寄付者」左側面に年号。その下に當村下組中、仝所發起廿八(人)
仝所大仙寺廿(世?)石の材質のためだろうか、やはり下部が崩れかけている。