千手堂 志木市柏町5-18
幸町の大塚付近から東に歩き東上線を越えるとT字路に突き当たり、右折して
道なりに進むと左手に千手堂の墓地があった。入口を入り右手、ブロック塀の
裏に十三仏が並んでいる。それぞれの像の上には、かなで名前が刻まれていた。
前段右
不動明王 この像だけ頭の上に名前が無く火焔で表す。側面に施主名。
左に進み順に、「しゃか」「もんじゅ」「ふげん」「ミろく」「ぢざう」
後段の右から「やくし」「くわんおん」「せいし」「あミだ」「あ志ゅく」
「だいにち」「こくざう」虚空蔵菩薩の左側面にも施主名が刻まれていた。
入口左側、小堂の中に六地蔵と地蔵菩薩坐像が並んでいる。全体に新しい。
真ん中の地蔵菩薩坐像の乗った塔の正面に「念佛講中」と刻まれていた。
その右脇に「為自他法界平等利益也」左脇
同□野 のぶ と見える。塔の
右側面には年号が刻まれている。脇に武州新座郡舘村大塚。さらに左側面に
世話人6名の名前。裏に回ると漢字で中野、大塚とあり、ひらがなで二文字の
名前が20個並んでいた。その筆頭に「のぶ」とある。正面に刻まれた文字は
中野村の「のぶ」さんということだろうか?
墓地の中ほどにも石塔が並んでいた。雨ざらしのため状態はあまり良くない。
左 念佛供養塔
年代不明 頭部の欠けた坐像、阿弥陀如来像だろうか?
蓮台の正面に「奉修念佛供養」と刻まれている。
その隣
千手観音坐像 寛文11(1671)合掌四臂。ふくよかな丸彫りの坐像。
正面に阿弥陀如来の化仏を頂き、十一面。十一面観音かと思われるが・・
蓮台に刻まれた梵字は阿弥陀如来、千手観音をあらわす「キリーク」のようだ。
下の台の正面には5名の名前が刻まれていた。
その奥
秩父巡礼供養塔 宝暦14(1764)正面「奉納秩父三十四ヶ所為二世安樂也」
右脇に武州新座郡舘郷 願主 個人名。左脇
同國同所講中三十五人敬白と刻む。
塔の側面には造立年月日が刻まれている。
続いて地蔵菩薩立像
宝暦7(1757)白カビのために顔などははっきりしない。
蓮台の正面には梵字「カ」下の台の正面「奉納西國秩父坂東湯殿為現當安樂」
廻國供養塔ということになろうか。両脇に造立年月日を刻む。
台の右側面
舘郷 願主2名の名前を刻む。左側面にも 舘村 願主2名の名前。
裏面には開眼供養導師
地王山寶幢寺と刻まれていた。
庚申塔
宝暦11(1761)ほぼ全体を白カビが覆いつくしている。梵字「ウーン」
日月雲
青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。
足元だけカビが薄い。足の両脇に二鶏。丸くうずくまる邪鬼。その下に三猿。
塔の左側面に年号。右側面「奉造立青面金剛一軀郷中豊樂所也」さらにその下部に
舘郷講中
五十一人敬白と刻まれていた。
神明神社 志木市柏町5-18
千手堂から西に歩き、東武東上線の線路沿いを進むと右手に神明神社がある。
階段の先、鳥居の右手前のブロック塀の前に石塔が並んでいた。
奥 月待供養塔 延宝7(1679)正面 梵字の下「奉造立廿六夜待心信抜苦安樂」
右脇に武州新座郡大塚、左脇に年号。余白に5名の名前が刻まれていた。
手前の板碑 中ほどで折れていて補修されている。文面は神明社の由来だった。
下の台、右側面に世話人6名の名前、正面に寄付連とあり18名、神明社世話人
12名の名前、左側面 発起人3名、続いて選文者、書者、石工名が刻まれている。
裏を覗くと大きく彫られた梵字「キリーク」が見えた。板碑とブロック塀の
隙間はわずかしかなくカメラで全体を捕らえられないが、こちらが本来の
表の面のようだ。
上部に天蓋を彫り、その下に「キリーク」下部は撮れなかった。資料によると
暦応2(1339)の銘があるらしい。南北朝時代の古いものだ。
柳瀬川土手遊歩道脇
柳瀬川駅から柳瀬川右岸の遊歩道を東に向かって歩く。富士見橋を越えて
少し進むと右手の堤の下に石塔が立っていた。後ろには塚がある。
石橋供養塔 宝暦9(1759)光線が悪く、彫りも少し薄いため読みにくい。
斜めから見ると文字が見えてくる。中央「石橋建立成就之所」両脇に年号。
右脇の下のほうに武州新座郡舘村。下部に多くの人の名前が並んでいた。
塔の左側面 引又宿とあり5名の名前が刻まれている。続いて北野村をはじめ
富士見の上難畑村、新座の野火止村、朝霞の溝沼村など多くの村名が見える。
右側面 中野村願主3名の名前に続き中野村中、針ヶ谷村、水子村、勝瀬村
大井町、福岡村、川越の古市場村などこちらも多くの村名が刻まれていた。
脇に立っている解説板によると44ヶ村が建立に関わっているらしい。
長勝院跡 志木市柏町3-10
柏町3丁目にある志木第三小学校の西隣、廃寺になった長勝院跡地の西奥、
大きな木の下に阿弥陀如来坐像 元文4(1739)ここもいい光線が得られない。
大きな光背の最上部に梵字「キリーク」光背にはほかに文字は見当たらない。
下の台の正面「武州高麗郡横手村 寶雲山瀧泉寺隠居 傳燈大阿闍梨興運
奉造立之而己敬白」台の右側面には年号が刻まれていた。
舘氷川神社 志木市柏町3-6-19
県道113号線、市場坂上交差点から坂道を登り、法務局志木出張所の二つ先の
志木小学校前交差点を右折して、細い道を道なりに進むと舘氷川神社の入口に
出る。江戸時代には舘・中野・引又・針ヶ谷・北野地域の総鎮守だったという。
入口の両側の幟立 明治14(1882)左右で一対、昇り龍、下り龍が彫られている。
細かい彫りが美しい。裏には 志木宿 針ヶ谷村 北野村 敬神社中と刻む。
拝殿の右奥、薄暗くなった木立の中に石塔が並んでいた。左二基が庚申塔。
左 庚申塔 寛文11(1671)風化が進み三猿は丸くなっている。三猿の下に8人の
名前を刻み、その下には大きな蓮の花が彫られていた。
溶けかかった三猿の上、右脇に年号。左脇には武州仁伊倉郡□□之所と読める。
右 庚申塔 寛文12(1672)光背右脇に「奉造立阿弥陀八幡大神宮庚申供養所」
左脇に年号。下のほうの両脇にそれぞれ僧名と3名の名前が刻まれていた。
主尊は大変珍しい阿弥陀如来立像。寛文期ならではという感じだ。350年を経て
カビなどもなく美しい状態を保っている。
行屋稲荷 志木市柏町3-5-10
氷川神社の入口から東に進み、すぐの信号を左折。道なりに左に回り込むと
右側に行屋稲荷がある。横が墓地になっていて、その入口に石塔があった。
馬頭観音塔 嘉永7(1857)正面上部「岡上」意味は良くわからない。続いて
「馬頭観世音」塔の右側面に年号。左側面 願主は個人名。
赤い鳥居が続く先に行屋稲荷社。参道の左側に石仏があるのが見える。
大日如来坐像 正徳2(1712)上部に梵字「ア」右脇に法印高海行者と刻む。
左脇に年号。手の部分が欠けているが智拳印を結んでいたと思われる。
行屋稲荷の右奥には末社があり、そのさらに奥に石塔が立っていた。
庚申塔 正保5(1648)大きな笠付の六面幢。六面にそれぞれ地蔵菩薩立像を彫る。
正面の錫杖を持った地蔵像の上「奉造立庚申待之為供養」と見える。
地蔵像の下「六地蔵壱宇建立二世大願成就円満所」両脇には造立年月日を刻む。
その両隣の面の下部にはそれぞれ4名の名前。志木市最古の庚申塔だという。
幢の後の面には武州新倉郡舘村と刻まれている。六地蔵を主尊とする庚申塔は
大変珍しい。思いつくのは浦和区常盤の成就院、元禄7(1694)元禄9(1696)二基
緑区原山 玉蔵院住職墓地 元禄3(1690)くらいか。その中でも正保4(1648)は
とりわけ古いものだ。
石仏全体で考えてみても、寛文あたりから急に多くなるが、それ以前となると
万治(1658~1661)はたまに見かけたが、明暦(1655~1658)はあったかなぁと
いう程度であとは記憶にない。最初期の石仏と言えるのではないだろうか。
寶幢寺 志木市柏町1-10-22
法務局志木出張所の西に寶幢寺がある。その山門に向かう道の入口の角に
大きな馬頭観音の文字塔が祀られていた。
馬頭観音塔 文政3(1820)正面に「馬頭観世音」右側面に年号。左側面には
世話人として舘村、引又の4名の名前が刻まれている。
堂々たる山門付近の風景。境内にはケヤキやイチョウなどの古木が多い。
山門の先、参道の右側の塀の前に三基の宝篋印塔と石塔が並ぶ。
右端 廻国供養塔 明和3(1766)正面上部 梵字「サ」の下に聖観音菩薩立像を彫る。
下部は手前に庚申塔が立っていて見にくくなっている。
見事に浮き彫りされた聖観音菩薩。上品で優雅な雰囲気を醸し出す。
聖観音菩薩立像の下「奉納一乗妙典六十六部日本廻國」両脇に造立年月日。
さらに「為成□功徳」「萬機乞助力」と刻む。庚申塔の陰になっていた部分
中央に「造此石橋者也謹言」右脇 武州新座郡引又町、左脇 願主 個人名。
塔の左側面 石橋助力 都合四十九ヶ村 同 當所市 商買人衆中と刻まれていた。
塔の裏面「願以此功徳普及於一切我等與衆生皆共成佛道」脇に當所石屋治兵衛
右側面 石橋助成 引又惣村中と刻まれている。石橋供養塔というべきだろうか。
その手前に立つ庚申塔 安永5(1776)日月雲 梵字「ウン」の下に「庚申塔」
両脇に造立年月日。下部には三猿が彫られていた。
三基の宝篋印塔は、山門のほうから順に明和4(1767)宝暦11(1761)享保11
(1726)の銘があった。笠型あり隅飾型あり、それぞれ微妙に様子が違う。
本堂に向かう。参道左側 小堂の中に六地蔵菩薩立像が祀られていた。
六地蔵菩薩立像。像も蓮台、台座も統一感がある。同時に奉納されたものだろう。
それぞれの台の正面に戒名が見られるが、造立年などは確認できない。
その隣 自然石に六地蔵が線刻されている。光線次第でやっと見えるくらいだが
なかなか美しい。裏に回ると明治17(1884)の銘が刻まれていた。
六地蔵の先の参道左側、大きなお地蔵様が立っていた。その奥には小堂が見える。
大きな基壇の上に二段の台を乗せ、その上に重制の石塔が聳え立っている。
全体で3mはあるだろうか。
蓮台の上に 地蔵菩薩立像 嘉永2(1849)頭の後ろに円形の光背を持つ。錫杖と
宝珠を手に、お地蔵様は穏やかなまなざしで微笑んでいる。
蓮台の下、塔の正面「奉造立延命地蔵大菩薩」右脇に為 先祖代々精霊
有縁無縁精霊(霊は異体字)菩提也。左脇に心願成為二世安樂と刻む。
上の台には唐獅子が彫られ、下の台にはたくさんの名前が刻まれていた。
左側面 塔には4行7字の偈文。上の台に20名ほどの名前、下の台にも
多くの名前が刻まれている。
右側面 塔には4行5字の偈文。上の台にやはり20名ほどの名前が見える。
下の台にはこちらもたくさんの名前が並んでいた。
裏面 塔には年号。続いて地王山地蔵院寶幢寺 十八世現住 弘観代と刻む。
上の台の浮き彫りは龍だろうか?下の台にも多数の名前が刻まれていた。
二段の台に刻まれた名前は世話人を含め優に200を越える。また、そこに
見られる地名は舘村、中野邑、引又町、岡上村、内間木村、門前、宗岡村
田嶋村、北野村、野火止、竹間沢、針ヶ谷、宮戸、南畑村、岡村、水子と
幅広い。多くの村々、檀家勢力たちが当時の寶幢寺のご住職の呼びかけに
応じてこの延命地蔵像の造立に協力したということだろう。
その奥、小堂の中にも石塔が並んでいた。
小堂の脇、延命地蔵像との間に地蔵菩薩坐像。右手の錫杖と左手の先が
欠けている。蓮台の下の塔、右側面に文久2(1862)の銘のある戒名が二つ、
左側面には明治5(1872)の銘のある戒名と施主 個人名が刻まれていた。
小堂の中、前列中央 如意輪観音菩薩坐像。年代等不明。面白い形だ。
後列左 地蔵菩薩坐像 天保9(1838)中央に童子の付く戒名。右側面に俗名、
その脇に行年八才卒と刻まれていた。左側面 明治十六年下宗岡村地蔵堂
ヨリ當寺ニ移轉 施主 三上某。寶幢寺の有力な檀家のもののようだ。
後列右 「三上家忠勤者 岩井厚三碑」とある。長年勤めたお番頭さんの
記念碑だろうか。非常に珍しい。小堂の中は三上家の私的空間らしい。
塔の右側面に明治43(1910)と刻まれていた。
本堂の右 植え込みの中に 尾張家お鷹場境杭が立っていた。同じような
境杭が中宗岡の実蔵院にも残されている。多摩川、新座、入間三郡が
当時江戸幕府の尾張家のお鷹場だったということで、その広大な地域に
境を示す杭が84本立てられていたようだ。現在そのうちの30本あまりが
確認できるとのこと。造立年などはわからない。
境内の東側、長屋門から入ってすぐ右手に文殊堂が立っている。堂の裏側に
石塔が並んでいた。
左から 弁財天、不動明王、不動明王?右の二体は光背などが欠けていて
造立年などの詳細は不明。
鳥居を頭上に八臂の弁財天。大変美しい坐像だが、光背には銘が見当たらず
年代等がわからないのは残念だ。
一番奥に「奉納石坂」と彫られた石塔が立っていた。その下には引又町中。
塔の右側面に明治6(1873)の銘が刻まれている。裏面に中野村世話人とあり
三上氏をはじめ数人の名前が刻まれていた。
参道の左側から本堂の裏にかけて墓地が広がっている。六地蔵の手前から
墓地に入り、敷石を頼りに一度左に曲がり、すぐ右に曲がった先、個人の
墓地の脇に石塔が縦に並んでいた。前の塔のために前面が見えにくい状況だ。
一番後ろには三猿庚申塔が見える。その前の二体は丸彫りの観音菩薩像。
千手観音坐像。下の台に文字が見えるが一部だけで詳細はわからない。
頭上に阿弥陀如来の化仏を頂き十一面。四臂だが丸彫りの場合は多臂は
難しいのだろう、千手堂の寛文11年の千手観音坐像も同じような様子だ。
こちらのほうが女性的な優しい顔立ちをしている。
その後に聖観音菩薩立像。こちらも台などに銘が確認できない。左手に蓮の花
右手は与願印。頭部は一部欠けているようだ。
前の千手観音坐像と比べると、引き締まった厳しい表情を見せている。
一番後ろに大きな笠付の庚申塔 寛文12(1672)が立っていた。
角柱型の塔の正面を凝った形に彫り窪め、中央「奉待庚申供養二世安樂所敬白」
右脇 武州新倉之郡舘村、左脇に年号が刻まれている。下部に大きな三猿を彫る。
三猿の下には数人の名前が刻まれていた。
三体の石仏の場所から少し西に聖観音菩薩立像 寛文9(1669)が立っている。
ここは個人の墓地の中なので死角になっていた。白カビが多く、一部文字も
読めないほどだが、舟形光背型の美しい立像だ。
上部に梵字「サ」頭の後ろに大きな円形の光背を持つ。左手に蓮の花を持ち、
右手はそっと添えられている。光背左脇 武州新倉之郡舘郷。下に年号を刻む。
光背右「奉修行坂東百番・・・」後のほうは読み取れない。
その左隣に笠付角柱型の庚申塔 延宝7(1679)青面金剛立像 合掌型六臂。
中央を深く二段に掘りくぼめて中に青面金剛立像を彫る。邪鬼・三猿は見えない。
下の右手に羂索を持っているのも珍しい。庚申塔の定型が確立する中期以降には
見られない自由な構成と言えるだろう。下部に道法とあり数人の名前。両脇には
造立年月日が刻まれていた。
塔の右側面 蓮の花の浮き彫りの脇に「奉待庚申供養為二世安樂所」と刻む。
左側面 やはり蓮の花の脇に武州新倉之郡舘村と刻まれている。
さらにその西の一角、上部に馬頭観音立像が彫られた墓石が立っていた。
目を吊り上げ口をへの字にした合掌六臂の馬頭観音立像。なかなかの存在感だ。
像の下に寛文7(1667)承応3(1654)天和元年(1681)の銘のついた戒名が見られる。
左下には施主として個人名が刻まれていた。
最初に紹介した三体の石仏のところから少しだけ奥のほう(本堂方向へ)歩くと
石灯籠 寛文12(1672)が立っていた。円柱形の竿部に「奉待庚申供養二世安樂所」
左脇に年号が刻まれている。
さらにその先にも庚申石灯籠が立っていた。竿部の銘は全く同じ。同形のものが
全部で四基あるということだが、どうしても残りの二基が見つからない。
また少し奥へ進むと小堂が立っていた。参道脇の延命地蔵立像の奥あたりになる。
小堂の中 薬師如来坐像。銘などは確認できず詳細はわからないが、状態は美しく
江戸後期だろうか?両手で薬壷を持つ薬師如来の坐像はあまり見たことがない。
貴重な作例なのかもしれない。
志木市柏町
味場 志木市柏町1-7-40
県道113号線の志木消防署付近の信号から柳瀬川方面に下ってゆく道がある。
かなりの下り坂で、この坂を降りきったらすぐ、細い道を左折すると右手に
小堂が立っている。このあたりを字名で味場と呼んでいたという。小堂の中、
三基の石塔が祀られていた。
左
馬頭観音立像 延宝6(1678)忿怒相合掌六臂。志木市最古の馬頭観音らしい。
光背右「奉建立馬頭観音」左に年号。下部、両脇に武州新座郡中野村と刻む。
頭の上にしっかりと馬頭が彫られている。顔に少しだけ傷が見られるが、
大事に守られてきたのだろう、白カビなどはなく全体にきれいだ。
中央
正面に「馬頭観音再建記念」右脇に大正十四年、左脇には中野組外有志。
この小堂を大正時代に建て馬頭観音を安置したということだろうか。
右 石橋供養塔
明和3(1766)二段の台の上、上部に馬頭観音坐像を浮き彫りし、
その下に「石橋供養塔」と刻む。両脇に造立年月日、さらに導師水光とある。
台の正面には水子村中、舘村中、中野村中、引又宿中と刻まれていた。
馬頭を頂き、合掌二臂の馬頭観音坐像。小さいながらもしっかりした彫りだ。
塔の右側面
武州入間郡水子村 願主 木内氏。左側面には 同州新座郡引又宿
施主
村山氏。この石橋は水子村の人たちが、当時のこの地域の経済の中心、
河岸場として繁栄していた引又宿への往来のために建立されたものだろう。
水害の多い地域でもあり、石橋の意義は大きかったに違いない。