妙厳寺 戸田市美女木2-27
[地図]
妙厳寺は新大宮バイパスの美女木交差点の南東200m、美女木公園の前にある。
交通量の多い新大宮バイパスが近いが、境内は落ち着いた雰囲気である。
山門を入ってすぐ左脇に笠をかぶった大型の地蔵菩薩立像が立っていた。
台の正面には28文字の偈文、側面に享保19(1734)と刻まれている。
さらにその下の台の4つの面にはそれぞれ12人の戒名などが刻まれていた。
本堂に向かう参道の左側には小堂が二つ立っている。
手前には十六羅漢。数えてみると前列9体、後列11体、あわせて20体ある。
様々な阿羅漢がそれぞれ個性豊かに表現されていた。
二つの小堂の間に石灯籠が立っていた。なんでこんなところに?と思ったら、
正面下部に猿、言わ猿が彫られていた。延宝2(1674)随分古いものだ。
左側面には聞か猿が彫られている。
右側面には見猿。三猿が揃っている。説明文では庚申月待石灯籠となっていた。
六地蔵菩薩塔
台の色などは不揃いだが六体とも丸顔で笑みを浮かべている。
1番左の台に宝暦14(1764)と刻まれていた。
左から4番目の台には石地蔵尊六躰建立
當村念佛講中と刻まれている。
山門の左奥に三界萬霊塔。ここには多くの無縁仏が並んでいた。その墓石の中に
「鳥八旧」を組み合わせた文字「ウハッキュウ」を数多く見ることができる。
曹洞宗と浄土宗の墓標に見られるものだが、由来等は謎らしい。
ここでは明暦2(1656)から元禄、宝永。調べてみると妙巌寺には44基あるという。
これだけの数が一ヶ所で見られるのはまれなことらしい。
ウハッキュウ
「鳥八旧」か「鳥八臼」か。謎が多い。
徳祥寺 戸田市美女木7-4 [地図]
徳祥寺は真大宮バイパスの西、美谷本小学校の南にある。門を入って右側に
多くの石塔が並んでいた。これだけ並ぶとなかなか壮観だ。
一番右の地蔵菩薩像塔は個人の墓石。二番目は出羽三山供養塔 文化6(1609)
下の台には二頭の牛が彫られていた。
庚申塔 正徳3(1713)青面金剛立像 合掌型六臂 邪鬼は見当たらない。
三猿の下に道満村七名の名前が刻まれている。
隣は庚申塔 宝暦4(1754)正面に奉造立青面金剛と彫られていた。
下の台には可愛い三猿の姿が見られる。
続く地蔵菩薩坐像は享保14(1729)享保3(1718)それぞれ個人の戒名が
刻まれていた。
隣に庚申塔 宝暦11(1761)青面金剛立像 六臂 左手に剣、右手にショケラ
かなり本格的な彫りだ。邪鬼はどこかとぼけた表情をしている。右側面には
奉造立庚申供養為二世安楽、脇に笹目領道満村と刻まれていた。
つづく石塔は正面がほぼ剥落しているが形から如意輪観音坐像と思われる。
右側面の下の方に江戸という文字が見える。右側面は与野道か?道標らしい。
馬頭観音の文字塔 嘉永5(1852)篆書体で馬頭観世音と彫られていた。
右側面 東わらび 北その下はうまく読めない。左側面 南はやせ江戸道。
下の台には細かい字で多くの人の名前が刻まれていた。
続いて正面に青面金剛と彫られた庚申塔 天保13(1842)台に藪雨中とある。
左側面 南はやせ 西ひきまた 北わらびだろうか?道標である。
その隣、庚申塔 宝暦9(1759)青面金剛立像 合掌型六臂 仰向けで腹部を
踏まれた邪鬼が苦しげだ。右側面に笹目領美女木村と刻まれていた。
左側面には女性と思われる11人の名前が並んでいる。
続いて正面に大きく庚申神と彫られた庚申塔元治元年(1864)台には講中。
両側面に三方向三地名があるが地名がうまく読めない。
隣には馬頭観音坐像 享保16(1731)三面忿怒相六臂
光背右に汝是畜生發菩提心と彫られていた。彫りも厚くこれも本格的だ。
この奥にも石仏が並んでいるがいずれも個人の墓石のようだ。
美女木薬師堂 戸田市美女木3
妙厳寺の南、外環道の北、薬師堂の墓地がある。
門を入ってすぐ右、塀の前の小堂の中に5基の閻魔大王坐像が祀られていた。
左から明暦2(1656)左側と前面の破損が目立つ。光背右に年号。
寛文13(1673)これは前面が剥がれ落ちているようだ。後背も欠けているが
かろうじて年号のところは残っている。光背左下に施主敬白。
寛文13(1673)光背上部を欠くが、顔の表情は残っている。光背左下
施主敬白。
明暦2(1656)やはり光背の一部を欠く。こちらも光背左下に施主敬白。
寛文10(1670)舟形光背
忿怒相。この中で一番状態がいい。光背左に年号。
続いて施主敬言と刻む。
門の左側には宝筐印塔
元文3(1738)と地蔵菩薩立像。
地蔵菩薩立像
宝暦10(1760)下の台に武州美女木村寳蔵寺。自他檀中助力。
願主
徹心。ふくよかで穏やかなお姿で立っている。
沖天神社 戸田市美女木3
薬師堂のすぐ東、天神社の赤い拝殿。
境内の東側、雨よけの下に石塔が立っていた。
石橋供養塔
享保元年(1716)梵字の下に勢至菩薩立像を彫る。光背左に
沖村中
施主等とあり、その下に4名の名前を刻む。
蕨道路傍 美女木1
新大宮バイパスの美女木交差点から北戸田を通って蕨に向かう蕨道。
左側路傍の雨除けの下に庚申塔が立っていた。
庚申塔
文化2(1805)青面金剛立像 剣ショケラ持ち六臂。足元の邪鬼が渋い。
三猿は下の台のほうに彫られている。
塔の右側面 東 蕨宿
南 早瀬 その隣は大野だろうか?
左側面
上部に年号。下部に講中とあるが、その脇、西は与の道だろう。
北は○木のように見えるがしっくりした地名が思い浮かばない。
庚申塔から東に歩くとすぐ左路傍に馬頭観音塔
明治44(1911)が立っていた。
塔の左側面には個人名が刻まれている。
道満橋たもと 戸田市美女木7
美女木八幡神社の西の道満橋のたもとに石塔が立っている。
水神宮塔
天保5(1834)「水神宮」の下に道満中、その下に3名の名前を刻む。
八幡橋近く土手 戸田市美女木7
道満橋の南の八幡橋の西、「さくら川」を渡って左に曲がると土手の途中に
石塔が立っている。はるか先に見えるのは幸魂大橋。
近づいてみると馬頭観音の像塔と脇に小型の石塔が並んでいた。
馬頭観音立像
寛文4(1664)三面忿怒相 合掌型六臂。光背右下に年号。
野ざらしのため全体にカビがまわっている。
左に一基の文字塔。内谷村
大野宿だろうか?詳細はわからない。
右側に5基の馬頭観音塔。いずれも風化が激しい。手前の塔に文化七年の銘。
よく見ると馬頭観音坐像のようだ。かすかに文字も見えるが読み取れない。
修行目公園南西角 戸田市美女木6
外環道の美女木ジャンクションのちょうど西、修行目公園の南西の角、
雨除けの下に石塔が立っていた。
石橋供養塔
明和2(1765)上部に彫られているのは姿勢菩薩だろうか?その下に
「奉供養石橋一所」塔の右側面に美女木村。左側面に年号。
美笹公園北東角 戸田市美女木5
修行目公園から外環道の下をくぐってすぐ南に美笹公園がある。北東の角に
やはり雨除けの下に庚申塔が立っていた。下の塔の部分が大きく像は小型だ。
庚申塔
宝永7(1710)丸彫重制 青面金剛立像 合掌型六臂。足元に邪鬼と三猿。
邪鬼はふてぶてしくニヤリと笑っているようだ。
丸彫の像で六臂が完全に残っているものは少ない。この角度から見ると左手に
矢と法輪を持っている。右手には弓が見える。
塔の正面中央に「奉造立庚申供養二世安樂所」両脇には武州笹目領美女木村。
最下部に女性7人の名前と世話人1名の名前が刻まれていた。
砂場公園 戸田市美女木4
美笹公園から陸橋を使って新大宮バイパスの東に渡ると砂場公園がある。
南西の角、小堂の中に庚申塔が祀られている。
庚申塔
文化元年(1804)日月雲 青面金剛立像 剣ショケラ持ち六臂。足元には
この地域では珍しく肘を張った正面向きM字型の邪鬼。
塔の右側面に年号。左側面には何も見当たらない。
M字型の邪鬼の下、砂に埋まった台の上端に見えているのは三猿の頭では?
もしかしたら、その台の側面に施主名などが刻まれているのかもしれない。
道満河岸釣り場入口
彩湖道満グリーンパークの釣堀の入口脇に石塔が立っていた。両脇に小さな
水神宮塔を従えて、中央は文字が読めないが、やはり水神宮のようだ。下の
台の正面に引又ミちと刻まれていた。
近くに解説板が立っていた。引又は現在の志木市の一部の名称。荒川を挟んで
志木の内間木村と戸田の美谷本村もこの道満の渡しで結ばれていたことがわかる。
美女木山王神社 戸田市美女木1-23
道満の東は美女木地区になる。バイパスを越えて重瀬公園の西に山王神社がある。
入口左に小堂があり、六地蔵の姿が見える。
小堂の中、左から
寒念仏供養塔 享保14(1729)台の上に地蔵菩薩坐像。
正面「寒念佛供養」下部両脇にそれぞれ下内間木村とあり施主名は個人名が
刻まれていた。志木市の内間木と美女木地区の結びつきを示すものだろう。
あるいはこの塔自体が志木のほうから移動されてきた可能性もあろうか。
像は比較的美しい状態を保っている。塔の右側面に年号が刻まれていた。
六地蔵菩薩立像。顔立ちや像の様子、蓮台の形など、統一感はあるようだ。
台に銘が見えるのは六基のうち三基。左から2番目
安永6(1777)の銘がある。
中央に念佛講中、十方助力と刻まれていた。
4番目 中央に念佛講中
敬白と刻む。脇に宝暦5(1755)の銘があった。
一番右
寛政2(1790)中央に善誠法子 霊(異体字)位と刻まれる。「法子」は
僧侶をあらわすらしい。
堂の一番奥に地蔵菩薩立像。こちらは台にも像にも銘は見当たらなかった。
安養寺 戸田市美女木1-3
山王神社から東に歩く。美女木一丁目交差点から細い道を東に入り込むと
安養寺があった。墓地の前、小堂の中に地蔵菩薩立像
享保16(1731)が立つ。
下の台の正面に美女木村講中、両脇に年号が刻まれていた。
その隣に百番供養塔
寛政5(1793)正面上部に月山・湯殿山・羽黒山。続いて
西國坂東秩父百番供養塔。両脇に天下泰平・国土安穏と刻まれている。
塔の左側面には年号。右側面
大師順禮所第五十七番 伊豫國八幡宮移とあり
その下に安養寺と刻まれていた。