番場口の庚申塔 板橋区徳丸8-5
徳丸5丁目の西端にある紅梅公園、南東の角の石垣の上に庚申塔が立っていた。
隣の解説板によると、地域の住宅化に伴う造成や区画整理のために、何度か
移動されたらしい。資料(平成7発行)では徳丸8-13路傍となっていて、二度、
三度と探したのだが見当たらずあきらめていたものだ。この紅梅公園の一帯は
「番場」という地名だったので「番場口の庚申塔」と呼ばれていると言う。
庚申塔 文久2(1862)塔の正面 日月雲「庚申塔」下の台の正面に「講中」と彫る。
塔の右側面に造立年月日。左側面には大きく徳丸村と刻まれていた。
台の左側面の右端に小さく、東 ふきあげ道 にしだい道。道標を兼ねている。
窪口の庚申塔 板橋区徳丸5-32
紅梅小学校の南にある徳丸三ツ和公園の北東角、石垣の上の小堂の中に庚申塔が
祀られていた。この付近の小字「窪」から、窪口の庚申塔と呼ばれているという。
この庚申塔も移動を繰り返したようで、資料によると徳丸8-9安楽寺の山門前に
あったものらしい。小堂の右手前には上部に丸い穴の開いた立方形の台石がある。
庚申塔 寛延3(1750)日月雲 青面金剛立像合掌型六臂。像の表面は風化のため
丸くなっていて顔などははっきりしないが、光背の文字は比較的読みやすい。
右脇に「奉造立庚申尊像」左脇に造立年月日が刻まれていた。
足の両脇に二鶏。足下に邪鬼の姿は無く、三猿だけが頼りなく彫られている。
塔の左側面には武州豊嶋郡徳丸郷 その脇に講中十二人敬白と刻まれていた。
小堂の右手間の台石、正面に正徳3(1713)の銘が見える。左側面には安楽寺住
法印□□、右は武州豊嶋郡?判読が難しい。
右側面に地蔵講中と刻まれていた。そうすると地蔵菩薩像の台石なのだろうか?
安楽寺 板橋区徳丸8-9
紅梅小学校のすぐ南隣に安楽寺がある。山門は閉まっていたが奥の長屋門から
境内に入ることができた。
境内の右手前、塀に囲まれた一角に歴代住職の墓地がある。卵型の墓塔や五輪塔、
文字塔などが並ぶ中、正面に一基の像塔が立っていた。
聖観音菩薩立像 延宝2(1674)左手に蓮の花。右手は与願印。光背左に年号。
光背右には法印権大僧都尊儀菩提と刻まれている。
徳丸7丁目交差点北住宅地角 板橋区徳丸7-18
松月院通りの徳丸7丁目交差点から北へ坂道を下ってゆく。二つ目の交差点で
右折してまた二つ目の交差点を左折。突き当りの左手の住宅の角、小堂の中に
庚申塔が祀られていた。脇の石板にその由来が刻まれている。それによると
この庚申塔も明治10年と昭和52年、二度移動され現在に至っているらしい。
資料では徳丸7-19とあり、その情報を信じ切っていたため都合4,5回は無駄に
探し回ることになった。多分誤植なのだろうが、このブログの記載事項なども
誤記などが無いように十分注意しなければいけないと改めて考えさせられた。
なにかおかしなところに気づいたかたはご指摘いただけるとありがたい。
庚申塔 正徳2(1712)下の台の正面には比較的大きな三猿が彫られている。
古いもので文字が薄く読みにくい。少し斜めから写真を撮ってやっと確認できた。
正面上部に日月雲。梵字の下に「奉造立寶塔庚申供養成就所」左脇に造立年月日。
右脇に武州豊嶋郡徳丸村と刻む。塔の両側面は狭すぎてよく見えなかったが、
それぞれに数名の名前が刻まれているようだ。
徳丸7丁目交差点東路傍 板橋区徳丸6-50
松月院通り徳丸7丁目交差点の東、ひとつめの交差点を右折、すぐまた左折すると
左手住宅の前に庚申塔。脇にやはり解説の刻まれた石塔があった。この庚申塔も
昭和49年区画整理のためここに移されたものらしい。新しい住宅化の波の中でも
地域の人たちの力によってこういった文化財が保存されているのはすごいことだ。
これらの庚申講の活動は今でも続いていると言う。
庚申塔 宝暦2(1752)正面 日月雲 梵字「ウン」の下 青面金剛立像 合掌型六臂。
二鶏・邪鬼・三猿が揃う。腰を高く上げた邪鬼の姿がユニーク。青面金剛と邪鬼の
顔の表情がそっくりで面白い。全体に彫りは力強くはっきりとしている。
塔の右側面に造立年月日。脇に「奉造立庚申尊像一躰」と刻まれていた。
左側面には武州豊嶋郡徳丸村 講中十二人と刻む。青面金剛の横顔がかわいい。
観音寺跡墓地入口 板橋区徳丸6-52
松月院通りの徳丸7丁目交差点から西に歩き、最初の曲がり角を左に折れると
左手に墓地があった。門扉をくぐると右側の小堂の中に六地蔵が並んでいる。
六地蔵菩薩立像 享保4(1719)左から3番目のお地蔵さまだけ少し小さい。
右の三体を見てみると像の大きさ、その佇まい、持物、衣服の模様などから、
左の三体のうちの二体も含め、同時に建立されたものと思われる。
三基の台を下の二基の台の上に置くという変わった構成。当初からこうなのかは
わからない。下の四基の台のうち右から三基の台の正面にはそれぞれ5つの名前、
一番左の台に8名の名前や戒名が刻まれていた。六地蔵の下の6つの台の正面には
すべてに享保四とあり地蔵名が刻まれ、側面には念佛講中などの文字も見られる。
右から3番目は庚申講十一人内と刻まれ、庚申講中も関わったことがわかる。
六地蔵の小堂の脇に仁王像 享保12(1727)が立っていた。この奥が墓地になる。
もう一基の仁王像とともに墓地の番人のような役割なのだろう。
左側にも仁王像 享保12(1272)三段になった台の上に載っている。
像の前に立つ力石?「奉納観世音」脇に徳丸村、四拾貫□。
真ん中の台に刻まれた銘は二基の仁王像とも同一で位置は左右対称になっていた。
左の仁王像で見てみよう。四つの面にそれぞれ銘がある。正面は「奉造立二王」
左側面には観音寺 現住長宥と刻まれている。
右側面 武州豊嶋郡徳丸村 講中三十三人 志七十人。裏面には年号が刻まれていた。
観音寺跡墓地西路傍 板橋区徳丸6-51
番地を見るとわかるように上の墓地のすぐ隣になる。松月院通りの一本南の
一方通行の通り。住宅の前に庚申塔が立っていた。
庚申塔 文久2(1862)正面に大きく「庚申塔」いたってシンプルだ。
塔の右側面に年号。台の右側面に3名の名前。左側面に9名の名前が刻まれている。
台の正面「左」「向」「右」とあり、それぞれ下に地名が刻まれているようだが
これがとても薄くて読みにくい。いろいろな角度から見てみたが、右 ねりま、
江戸道。向 赤塚、吹上道はやっと読むことができた。「左」の下はわからない。
資料では にしたい、□□□道だが、拓本でも採らない限りこれは無理だろう。
石川橋公園 板橋区徳丸5-14
紅梅公園の西から「徳丸石川通り」を南へ向かう。松月院通りを越え坂道を下ると
信号機のある交差点の左に石川橋公園がある。交差点から斜め左に入り公園沿いに
歩くと植え込みの中に庚申塔が立っていた。
庚申塔 嘉永5(1852)塔の正面に「庚申塔」下の台には「講中」と彫られている。
台の右側面 北 赤塚 吹上道。左側面 左 ねりま いたばし道。裏面に年号を刻む。
開進堂霊園 板橋区徳丸5-19
石川橋公園の道路を挟んで東の向かい側に開進堂霊園がある。かなりの傾斜地で
墓地は急な階段の両脇に段々畑のように広がっていた。
一番上の本堂の右手、小堂の中に三体の丸彫りの地蔵菩薩像が並んでいる。
右 地蔵菩薩立像 寛延2(1749)厚みのある体躯で右手に錫杖左手に宝珠を持つ。
下の台が異常に大きい。中央に「法界(古体字で)萬霊」両脇には造立年月日。
右下に講中とあり、左に願主 物外、僧名だろうか。
中央 地蔵菩薩立像 寛政12(1800)静かな表情で合掌している。下の台の正面
梵字「カ」の下に恵明法師。両脇に造立年月日が刻まれていた。
左 地蔵菩薩立像 文化4(1807)像の中央に断裂跡がある。台の材質が粗いため
文字が読みにくい。正面 梵字の下に「奉□」、右側面 為自他□□、左側面には
年号。続いて願主禪心と刻まれている。
駐車場内コンクリート壁 板橋区徳丸5-12
石川橋公園の南の道を東に1分ほど歩くと駐車場の奥、後ろに建つ住宅の土台の
コンクリート壁の中程に庚申塔が祀られていた。3m位の高さがあり、近寄って
像を観察することはできない。
像の全体を撮るために遠くから望遠レンズで撮影した。庚申塔 元禄13(1700)
日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。光背の一部は欠けているものの、全体に
きれいな状態を保っている。青面金剛は不敵な面構えで正面をにらんでいる。
光背右「奉造立庚申像二世安樂処」脇に願主は個人名。光背左に造立年月日。
足下には二鶏だけが彫られていた。
前谷津川緑道路傍 板橋区徳丸6-7
徳丸通りの宮の下交差点から西徳通りを東に歩き、すぐ左折すると西徳通りと
平行して前谷津川緑道があった。緑道の植え込みの前に石塔が立っている。
不動明王塔 文化元年(1804)塔の正面「大山不動明王」塔の上に不動明王像が
乗っていたらしい。その脇には板橋区教育委員会による解説板が立っていた。
塔の右側面 上部に造立年月日。下部には十方施主世話人拾九人。続いて脇に
羽黒山講中と刻まれている。
緑道北会社敷地内 板橋区徳丸6-6
上の場所からさらに北へ一丁歩いて左に折れると、大きな門柱の奥、小堂の中に
二基の石塔が並んでいた。ここは会社の敷地の中で、たまたま居合わせた人に
挨拶をして写真を撮らせていただいた。
左 庚申塔 享保12(1727)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。
光背右「奉造立庚申為二世安樂也」光背左に造立年月日が刻まれている。
足下に二鶏・邪鬼・三猿。穴からはい出てきたように体を起こす邪鬼が面白い。
三猿も三者三様の姿。その下に武州豊嶋郡徳丸村講中十四人と刻まれていた。
右 馬頭観音立像 享保12(1727)三面忿怒相六臂。比較的美しい。
光背の上部に梵字「ウン」三面の顔は目が吊り上がり忿怒相といえるだろうが、
それでも深刻さは無く、穏やかで静かな表情をしている。
塔の下部中央に「奉造立馬頭観音」右脇に造立年月日。左に武州豊嶋郡徳丸村
講中十六人と刻まれていた。
宮の下交差点西路傍 板橋区徳丸3-38
宮の下交差点から今度は西に歩く。次の信号のある大きな交差点を左折すると
左手の歩道の奥に庚申塔が祀られていた。
小堂の下、庚申塔 享和2(1802)日月雲 青面金剛立像剣・ショケラ持ち六臂。
塔全体に破損が見られ、表面は半ば溶けかかっている。
塔の右側面 混沌とした中、右 ねりま道。脇に年号を刻む。
左側面には大きな字で 左 戸田みち と刻まれていた。
小堂の右手前 大典記念塔 大正4(1915)正面に「大典紀念」右側面に年号。
左側面に帝國在郷軍人會赤塚村。板橋区立郷土資料館の古民家裏で見た石塔と
全く同じもののようだ。(2015年10月29日の記事)正面下部の地名だけが違う。
こちらには 右 下練馬宿 前 赤塚役場前 左 志村 赤羽などの文字が見える。
大正天皇の即位大典の記念碑らしいが、またどこかでこれと同じような石塔が
見られるだろうか。
おいせ坂上南路傍 板橋区徳丸4-20
徳丸石川通りを南に進むと西徳通りの先は急な登りの坂道になる。この坂を
登りきり、おいせ坂上バス停のさらに南の右手路傍に石塔が並んでいた。
もう少し行くと東武東上線の線路にぶつかる。
右 庚申塔 享保8(1723)資料には板碑型とされているが、一般的に見る中央を
窓型に彫り窪めた板碑型とは趣が異なる。
日月雲、梵字「ウン」の下「奉造立庚申尊像二世安樂所」上部両脇に造立年月日。
下部両脇に渡り武州豊嶋郡徳丸村講中十五人と刻まれていた。
さらにその下に蓮座と三猿が彫られている。板碑などで阿弥陀三尊の種子の下に
蓮座というのはよく見るが、こういう形で使うのは珍しい。
中央 庚申塔 寛文8(1668)こちらは一般的な板碑型。中に刻まれた文字が薄く
とても読みにくい。下部には大きな蓮の花が彫られていた。
この中央部を確認するために三度訪ねてみたがやはり難しい。光線の加減で
横から見て少し文字が見える。中央上部から「妙法 奉庚申・・・・・・・」
後ろのほうは自信がない。右脇 寛文と見えるがあとが怪しい。資料によると
寛文戌申ということで寛文8年。左脇には武州□□郡徳丸村と刻まれていた。
その下 中央に口に両手を当てた猿を線刻し、両脇に8名の名前が刻まれている。
猿の下には13,4名の名前が見えた。
左 地蔵菩薩立像 元禄13(1700)顔が薄く削れ錫杖の先と宝珠が欠けている。
光背右「奉造立地蔵尊像」光背左に年号。下部両脇に「施主敬白」と刻む。
中尾観音堂 板橋区徳丸2-20
徳丸通りを南に進み、宮の下交差点の先、二つ目の角を左折して200mほど歩き
細い坂道を右に登ってゆくと左手に中尾観音堂の入り口があった。
本堂の右手前、小堂の中には五基の石仏が整然と並んでいる。
右から地蔵菩薩立像 延宝8(1680)丸彫り合掌型。頭部は新しく補修されている。
足下に光誉□□、両脇に造立年月日が刻まれていた。
続いて地蔵菩薩立像 寛延3(1750)光背両脇に二つの童子名があり墓塔のようだ。
その奥に聖観音菩薩立像 寛文11(1671)左手に蓮の花、右手は与願印。光背右に
「普照四天下 為度衆□」光背左「本地観世音 皈依日天子」光背の中ほど両脇に
造立年月日。下部両脇に施主等敬白。足元には10名ほどの名前が刻まれている。
その隣 一石六地蔵塔 宝永2(1705)二段に各三体、お地蔵さまは薄く微笑みを
浮かべる。それぞれの足元に一から六の数字が刻まれていた。
塔の右側面中央「奉造立六地蔵尊像」両脇に六つの僧名らしきものが見える。
下部 武州徳丸之内中尾、施主は個人名。塔の左側面 長い願文の中に年号。
一番奥に地蔵菩薩立像 元文元年(1736)光背右脇「奉供養地蔵尊」左には年号。
足元 右から武州豊嶋郡徳丸村中尾道 講中拾四人 願主個人名が刻まれていた。
本堂の左手前の小堂の中には四基の庚申塔が並んでいる。
左から庚申塔 宝永7(1710)日月雲 青面金剛立像合掌型六臂。頭上に梵字「ウン」
二鶏・三猿を彫る。下部には講中廿六人と刻まれていた。
塔の左側面に造立年月日。右側面には大きく「奉造立庚申尊像二世安樂所」
隣 庚申塔 享保18(1733)日月雲 蛇の頭、三眼を持つ青面金剛立像合掌型六臂。
光背右 講中十六人、願主は個人名。光背左に造立年月日を刻む。
足下にバランスよく二鶏・邪鬼・三猿。青面金剛と同じ顔立ちの邪鬼がいい。
その奥に庚申塔 宝暦2(1752)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。
奔放だが全体のバランスは計算しつくされている。他に例を見ない個性的な
庚申塔といえるだろう。粗削りな線が力強い。頭上には梵字「ウン」
内股に構えた青面金剛のはだしの足、細やかに刻まれた二鶏、這いつくばる
しかめっ面をした邪鬼、ユニークなポーズでくつろぐ猿達。楽しい空間だ。
塔の右側面「奉造立庚申尊像一躰」歯をむき出した青面金剛の横顔が恐ろしい。
その左手に吊るされたショケラは天使の顔をしている。
左側面上部に年号。下部に武州豊嶌郡徳丸村、脇に追川氏、続いて講中十五人。
追川氏が講頭ということだろう。この観音堂の他の石仏の願主 個人名の多くは
追川氏、または追河氏だった。当時のこの地域の有力者であったに違いない。
一番右 庚申塔 宝暦4(1754)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。
忿怒の顔だが、左隣の異形の青面金剛を見た後では静かな安らぎさえ感じる。
光背の最上部に梵字「ウン」青面金剛の頭の上には蛇。顔の右脇の空間に
「奉建立庚申尊像」左脇に造立年月日が刻まれていた。
光背右下 二世安樂處。左下 武州豊嶋郡徳丸村 絶通講中十六人。現在の徳丸の
一丁目と二丁目の一部が「中尾」二丁目の大部分は「絶通」(ぜっつ)と呼ばれ、
「中尾講」と「絶通講」の二つの念仏講が存在したらしい。両脇に二鶏を線刻。
足下にはここでも青面金剛とよく似た顔立ちの邪鬼。三猿も凝っている。