稲荷氷川神社 板橋区坂下3-5
高島通りを西台駅のほうから東に進み、中山道に出るひとつ前の交差点を左折するとすぐ右手に稲荷氷川神社がある。神社の右奥、二基の石祠の向こうに石塔が立っていた。
庚申塔 享和3(1803)青面金剛立像 剣・ショケラ持ち。全体に風化が著しく進み、像の表面はほぼ溶けてしまっていて確実なところはわからないが、中央の膨らみ具合から剣・ショケラ持ちだと思われる。
塔全体に剥落が見られ、正面の像の様子もまるではっきりしない。細くなった部分が青面金剛の足で、その下のふくらみが邪鬼だろうか。さらにその下は三猿のように見えるがどうなのだろう。
塔の左側面は完全に崩落していた。右側面にかろうじて□和三亥の文字が残っている。江戸時代の三年亥年は天和3年と享和3年となるが、「和」の上に残る文字の形は不完全ながら「享」のように見える。
志村坂上西路傍 板橋区志村2-3
中山道の志村坂上交差点の西側歩道のところに交番がある。ここから斜めに細い一歩通行の道を北西方向に進むと、右手の住宅のブロック塀の端のくぼみの中に庚申塔が祀られていた。
庚申塔 正徳3(1713)日月雲 青面金剛立像 合掌型八臂。体の前面の合掌した腕以外に後ろに三組の腕が確認できた。八臂の青面金剛は珍しいが江戸時代初期ならではだろう。
かなり風化が進み見にくいが足元に邪鬼と三猿。三猿の下の部分にも文字らしいものが見えるがはっきりしない。
塔の表面は滑らかなところがなくごつごつしている。そこに刻まれた文字はやはりはなはだ読みにくい。右脇「奉供養庚申□□安□願□」左脇に年号。□徳三巳とあるからこちらは正徳3年と思われる。
塔の右側面 武州豊嶋郡志村。左側面は資料によると乞より□□□し□□し道となっているがよく見えない。下のほうはぜんかうじ道のようにも見えるが・・・
志村坂上西交差点角 板橋区志村2-7
前回紹介した庚申塔があった一方通行の道をさらに50mほど進むと、左方向に向かう二本の分かれ道がある。その角の所にあるお店の前に二基の石塔が並んでいた。脇には解説板も立っている。
右 庚申塔 万延元年(1860)正面 日月雲の下、きれいな字で「庚申塔」下の台の正面に半ば土に埋もれているが三猿が彫られていた。
塔の右側面は笹が迫っていて写真は撮れなかったが銘は確認できた。上部に造立年月日。その下に武州豊嶋郡志村。左側面には是ヨリ冨士山大山道。その下に練馬江一里、柳沢江四里、府中江七里。道標としての役割が大きかったのだろう。
左 道標 寛政4(1792)正面に 是より大山道 并 ねりま川こへみち。塔の右側面に年号。左側面には 武州豊嶋郡志村講中と刻まれていた。この二つの石塔の銘から、この付近が中山道から富士・大山道が分岐する場所だったことがわかる。
延命寺 板橋区志村1-21
中山道の志村坂上交差点の西にある志村第三公園のそばに延命寺がある。その山門を入るとすぐ左手に六地蔵菩薩立像 寛政3(1791)が並んでいた。それぞれの台の正面には、一番右「為先祖代々一切聖霊也」他の5基は天明4年(1784)から寛政2年(1790)までの命日といくつかの戒名が刻まれている。
一番左の台の左側面「六地蔵尊建立大願成就」その脇に武州豊嶋郡志村施主 個人名を刻む。続いて造立年月日。さらにその奥に十六世法印祐海代と僧正の名前が刻まれていた。
参道を進むと正面の本堂の左側、石塔などに囲まれて小堂が立っている。
小堂の中、薬師如来坐像 正保4(1647)光背中程両脇に造立年月日。下部両脇に渡って庚申待 結衆敬白と刻まれていた。資料によると板橋区最古の石仏だという。
延命寺地蔵堂 板橋区志村2-5
中山道の志村坂上交差点から西に300mほど歩き細い道を右に入った先、住宅街のなかに地蔵堂があった。門の中に入ると正面にお堂が見える。石仏ゾーンは三カ所。入り口近くの参道左脇、お堂の右横、墓地へ向かう道を挟んでその東の一角。
参道左に二基の庚申塔。資料によると志村2-6に二基の庚申塔があるということで二度ほど訪ねたが、その場所には新しい家が建っていて見つからなかった。新築の折にこちらに移されたものだろう。
左 庚申塔 延享4(1747)中央に「奉供養庚申待二世安樂」右脇に武州豊嶋郡堀之内村。左脇に造立年月日。下部に十数名の名前を刻む。さらに塔の下部には素朴な三猿が彫られていた。
右 庚申塔 宝暦元年(1751)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。足の両脇に二鶏、下部には半分土に埋まっているが三猿が見える。
塔の左側面に造立年月日。右側面には武州豊嶋郡志村 庚申講中と刻まれていた。
お堂の右脇にたくさんのお地蔵さまが並んでいる。中央に二組の六地蔵菩薩立像。あとは個人の墓塔だった。
六地蔵菩薩立像。同じような舟形の光背を持ち、顔立ち、体のラインなどもよく似通っている。
それぞれの光背には戒名と安政7(1860)から文久2(1862)の命日が刻まれていた。
奥に丸彫りの六地蔵菩薩立像。六体とも頭部を欠いた跡があり、いたってラフな補修が施されている。
それぞれの台の正面に梵字「カ」が彫られていた。造立年など他に銘は見当たらないが、左から二番目の台には 武州豊嶋郡志村 念佛講中、願主 平□と刻まれている。
地蔵堂の東側の整備された一角、正面に堂々と弘法大師坐像があり、そのまわりにはたくさんの石塔が立っている。
左側には不動明王をはじめ十三仏 享和2(1802)が並んでいた。不動明王だけが炎の光背、あとの十二仏は同じ形の光背を持ち、像の高さもほぼそろっている。以下、写真の下に名前だけ記しておく。
不動明王
釈迦如来
文殊菩薩
普賢菩薩
地蔵菩薩
弥勒菩薩
薬師如来
観世音菩薩
勢至菩薩
阿弥陀如来
阿閃如来
大日如来
虚空蔵菩薩
十三仏の台はひとつながりになっていて、中央付近に銘が刻まれていた。右から「十三佛建立 三界萬霊 有無兩縁 為菩提也 郷内安全 諸願成就」続いて造立年月日。さらに武州豊嶋郡志村。施主二名。
正面 大きな基壇の上、弘法大師坐像 享和2(1802)その下の台の中央で丸い紋章をささげ持っているのは天邪鬼だという。
台の正面 右に造立年月日。中央 天邪鬼に隠れているが「郷内安全 為三界萬霊有無兩縁 心願成就」左 武州豊嶋郡志村。施主二名。十三仏の施主と同じ名前だった。
右側には歴代住職の墓塔などが立っている。その中に大きな閻魔王坐像 文化4(1807)
台の右側面に造立年月日。正面には 武州豊嶋郡志村 郷内安全 為三界萬霊有無兩縁 諸願成就と刻まれている。続いて施主二名、これも十三仏、祖師像と同じ名前だった。このように手の込んだ多くの石仏をまとめて建立するにはそれ相応な財力の裏付けが必要だろう。驚くべきことだ。
閻魔王坐像の手前に唐破風笠付きの大きな角柱型の石塔が立っていた。十王尊塔文化4(1807)三つの面に、閻魔王をはじめ地獄において亡者の審判を行う10尊の像が彫られている。
左側面の一番下は奪衣婆のようだ。裏面は地獄における亡者の様子を彫ったものだろう。生首がなんとも不気味だ。