善長寺 板橋区西台2-18
首都高速道路の下、西台交差点の西の細い道を進むと善長寺がある。
本堂の左手奥に六地蔵をはじめ多くの石塔が並んでいた
手前から六地蔵菩薩立像。一番右の像だけ小さく見えるが、蓮台を欠いているため
像自体は同じ位の大きさ。それぞれの台に宝暦10(1760)~安永5(1776)の年号と
多くの戒名が刻まれている。
右から二番目の台、田端郷中、「奉建立地蔵大菩薩」中央には堀下郷中老若男女、
続いて為結縁菩提二世安樂也。世話人二人の名前が刻まれていた。
右から五番目の台、壹躰願主 個人名、中央に田端念佛講中。施主 個人名を刻む。
隣 地蔵菩薩坐像 宝暦2(1752)全体に風化が進みはっきりしないが、塔上部は
合掌した地蔵菩薩の坐像と思われる。その下、中央は南 弥りま道。右脇に年号。
左脇は人名のようだがうまく読むことはできなかった。
塔の右側面 東 戸田わたし道。左側面 北 徳丸吹あげ道。それぞれの下のほうに
数名の名前。村人、旅人が行き交う辻に立ち、しっかりした道標だったのだろう。
塔の上部にはたくさんの窪み穴が深く穿たれていた。
奥に庚申塔 造立年不明 日月雲 青面金剛立像剣・ショケラ持ち六臂。こちらも
風化が進み、中央に断裂跡がある。六臂の持物は法輪だけが確認できるがあとは
はっきりしない。ちょうど腹部あたりに断裂後の補修跡が残り見にくいのだが、
前両手の構えから剣・ショケラ持ちと思われる。
下部にはカビが多くこびりついているが、二鶏も比較的しっかり彫られていて、
足下にはずんぐりとした邪鬼、その下に丸々とした三猿の姿が見られる。
塔の右側面 西 ねりま道。左側面 東 江戸道。どちらも大きな字で刻まれていた。
続いて白衣観音立像。資料では聖観音となっているが、被り物の様子、経典を
持っている点などから白衣観音ではないだろうか。銘などは見当たらない。
その隣は丸彫りの地蔵菩薩立像 宝永7(1710)合掌型。静かな表情をしている。
下の台三面にそれぞれ四文字十行ほどの文字が刻まれていた。うまく読めないが
紀年銘は見えないので戒名ではないだろう。あるいは僧名か?
台の裏面 造立年月日。脇に武州豊嶋郡西臺堀下村、講中 善男女と刻まれている。
その奥に唐破風笠付の庚申塔 元禄12(1699)正面中央を窓型に彫り窪めた中に
「奉造建庚申供養塔現當安樂」窓の外、両肩に日月雲。下部に蓮の花を彫る。
塔の右側面 武州豊嶋郡西臺堀下村本願構衆如左。右下に人名が見える。
左側面には加會念佛構衆善信女二十二人と刻まれていた。加會は字名か?
裏面 造立年月日、その脇に現住圓福大恩代誌?さらに二十数名の名前を刻む。
隣 庚申塔 正徳6(1716)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。塔の左側に
カビが多い。光背右「奉造立庚申供養塔二世安樂処」続いて造立年月日。
その下には武州豊嶋郡西臺堀下村と刻まれていた。光背左は読みにくい。
開眼師圓福現住□□・・禅定門?天・・・あとはカビが多すぎる。
下部はあいまい模糊とした中にもっさりと邪鬼。その下に三猿を彫る。
三猿の下にも文字があるようだが、残念ながらやはり読めなかった。
奥に 六字名号塔 天保5(1834)徳本上人の独特の書体で「南無阿弥陀仏」
塔の右側面に造立年月日。そのほかの面に文字は見当たらない。
左端には子育て地蔵尊坐像 弘化5(1848)錫杖を持ち左手に子供を抱く。
塔の正面 文字は薄いが両脇に江戸下谷 龍泉寺村、中央は「造立□□・・」
後ろのほうはカビもあり読みにくい。
塔の左側面 中央に銘曰とあり、両脇に合わせて28文字の願文を刻む。
塔の右側面はやはり字が薄すぎて長い文の半分ぐらいしか文字が読めないが
この石塔の由来だろう。裏面には年号。続いて武州豊嶋郡西臺邑 善長寺。
さらに現十七世□篤翁代新造立と刻まれていた。
圓福寺 板橋区西台3-32
西台交差点から南へ東武練馬方面に向かう西台中央通り。かなり急な坂道を登り、
西台交番の少し手前、右手に圓福寺がある。大きな仁王像が入り口に立っていた。
山門の手前、右手の塀の前に三基の石塔が並んでいる。
右 庚申塔 延宝5(1677)唐破風笠付 中央に「奉彫刻庚申供養石塔二世安穏攸」
上部両脇に造立年月日。下部右 結縁衆等 左 頓首敬白。その下に三猿を彫る。
塔の右側面 蓮の葉の下に6名の名前が刻まれていた。
左側面には蓮のつぼみの横に武州豊嶋郡西臺田端村と刻まれている。
中央 地蔵菩薩立像 明和2(1765)下の塔部も合わせると2mを越える。
蓮台の下、塔部の正面「奉建立地蔵尊一基」両脇に造立年月日を刻む。
塔の左側面には門前不動谷念佛講中と刻まれていた。
左 戒壇石 明和2(1765)正面に大きく「不許葷酒入山門」
裏面は塀が近すぎて全体を写すことができないが「大乗妙典六十六部廻國供養塔」
その両脇に造立年月日が刻まれていた。
山門を入り本堂に向かうと、右手の庭木の中、大きな石塔の上に地蔵菩薩坐像
明和元年(1764)があった。
塔の正面に大きく「妙典千部塔」左側面 中央上から九世天巖理大和尚、その下は
右に開山道無沙弥、左に安清離心禪尼と刻まれている。
右側面に造立年月日。続いて讀主前圓福心月叟誌。裏面上から彌陀稱名三千萬遍
下に乃至法界 平等利益と刻まれていた。
本堂の左手、階段の上に墓地が拡がっている。二つの階段の間に無縁仏が
集められていて、その一番上には大日如来坐像が見える。
左端付近に 大乗妙典供養塔 宝永7(1709)正面中央「大乗妙典壹千部眞讀碑」
塔の左側面と裏面にはそれぞれ17文字5行の願文が刻まれていた。
右側面は下半分が他の石塔の陰になって見えないが、上部中央に年号、
その隣の行に武州豊嶋郡西臺郷西臺村の文字が確認できる。
二つの階段の奥にあるもう一つの階段の陰に馬頭観音立像 安永7(1778)が
立っていた。光背上部両脇に造立年月日。下部には武州豊嶌郡西臺村。
塔の右側面 清岩院矍林居士 浅田権兵衛。脇に安永六年の銘がある。個人の
供養のための馬頭観音というのはあまりきかない。左側面も見てみたかったが
階段との隙間が5cmもなく、文字があることは確かだが確認できなかった。
資料によると堀下中老若男女為現當二世安樂とあるらしい。堀下村の人々が
力を合わせて建立したものということになる。右側面 浅田氏は願主だろうか?
法蔵庵 板橋区西台3-35
圓福寺の前の信号のある交差点から西に歩くとすぐ右手に入る枝道がある。
ここから道なりに西に進むと角の所に圓福寺の境外堂 法蔵庵があった。
入口の左、庚申塔 正徳6(1716)日月雲 青面金剛立像合掌型六臂。
蛇を頭に乗せた三眼の青面金剛がキッとにらみつける。彫りも文字も美しい。
光背左に年号。右に「奉彫刻庚申供養二世安樂處」と刻まれている
青面金剛の足の両脇に二鶏。足下の邪鬼は下の三猿に比べるとやや貧弱か。
塔の左側面に開眼師圓福現住傳燈沙門天巖叟誌之と刻む。塔の右側面には
武州豊嶋郡西臺郷田端村講中と刻まれていた。
入口の右 地蔵菩薩立像 享保4(1719)光背左脇に年号。その下に念佛講中。
光背右脇には「奉請地蔵菩薩」その下に小さく西臺田端村と刻まれている。
その奥に六地蔵菩薩立像。下が平らではないので頭が揃わない。像の様子、
蓮台の形、下の台の様子も六体それぞれで統一感はあまりない。
六基の台には享保6(1721)から享保14(1729)の銘と戒名が刻まれている。
左から二番目の台の正面には「奉造立夏?念佛供養塔」の文字があった。
境内に入ると、奥の墓地の入り口付近に六基の石塔が並んでいた。前三基は墓塔。
後列右から如意輪観音菩薩坐像 元禄12(1699)下の台に「舩退」意味は不明。
中央 聖観音菩薩立像 明和5(1768)その手に蓮華を持たず静かに合掌している。
下の塔の正面に「大乗妙典六十六部供養塔」上部両脇に天下泰平、國土安穏。
下部両脇に造立年月日が刻まれていた。右側面には20文字の願文。左側面に
「有縁無縁三界萬霊結縁衆等」続けて願主 林心。右脇に武州豊嶋郡西臺邑
阿弥陀堂。左脇には西臺山圓福禅寺現住月柱叟と刻まれている。
左 三界萬霊塔 寛政10(1798)阿弥陀三尊の梵字「三界萬霊三度拝礼供養塔」
両脇に西國・四國・秩父・坂東。これらの霊場を三回順礼したということか。
塔の右側面に造立年月日。左側面には當村 教徳谷(京徳谷)とあり、
その下に願主、世話人名が刻まれていた。
京徳観音堂 板橋区西台3-53
法蔵院の前の急な坂道を西に下ってゆくとやがて右手に京徳観音堂へ上る石段が
見えてくる。志村第五小学校の真西になる。石段の手前左手、鉄の檻に囲まれて
二基の石塔が立っていた。
左 大乗妙典供養塔 安永3(1774)正面中央に「奉納大乗妙典日本廻國供養塔」
両脇に天下和順日月晴明と刻まれている。塔の右側面に年号。左側面願主名。
右 地蔵菩薩立像 文化15(1818)顔は後から補修されたようで形が面白い。
台の正面 中央上は經曰か?右に地蔵菩薩以大慈悲、左に善聞名号不随異聞。
台の右側面に年号。こちらは裏面 武州豊嶋郡西臺村教徳 念佛講中とあり
願主、世話人4名の名前が刻まれていた。
石段を登りきると正面に観音堂。左側の墓地の入り口に石塔が並んでいた。
左 赤い雨除けの下に馬頭観音塔 大正15(1921)大きな自然石の正面中央に
「馬頭觀卋音菩薩」願主は二名になっている。
祠の中 薬師如来坐像 寛政12(1800)右手は施無畏印、左手に薬壺を持つ。
下の台の様子はお賽銭箱が邪魔になって見えない。梵字「ア」の下は法印宝願
不生位。両脇に造立年月日が刻まれているらしい。
お堂近く、大きな木に寄り添うように地蔵菩薩 万治3(1660)が立っていた。
古いものだが彫りは美しい。光背上部に「念佛供養」右脇に武州豊嶋郡西臺村。
その下に文字が薄く見えるが人の名前だろうか。
観音堂の入り口から20mほど歩くと右手路傍の小堂に三基の石塔が並んでいる。
右 馬頭観音立像 文化15(1818)小型だが頭上に見事な馬頭。施主は個人名。
中央 庚申塔 宝永4(1707)日月雲 青面金剛立像合掌型六臂。足の両脇に二鶏。
足下には邪鬼。三猿は台の正面に彫られているらしいが、その前に線香立てが
ぴったりくっついていて確認できなかった。
三眼の青面金剛。右脇に「奉造建庚申供養青面金剛像現當安樂所」と刻む。
顔の左脇に造立年月日。さらにその脇に現住圓福禅寺大恩代執行焉。
塔の最下部に武州豊嶋郡西臺京徳村 庚申講中 善男女若干衆等同陳。
左 庚申塔 年代などは不明。風化が激しい。中央「庚申塔」だろう。両側面に
文字らしきものが見られるが、残念ながらいずれも判読は難しい。
西台不動尊 板橋区西台1-29
圓福寺の前の信号交差点から東の細い道に入るとそこは急な下り坂で、谷に向かって降りてゆくことになる。少し歩くと左手に西台不動尊の入り口があった。ずっと奥の階段の上に不動堂の屋根が見える。先日見た圓福寺門前の地蔵像の台に「門前不動谷念佛講中」とあったが、不動谷とはこのあたりのことだろう。
石段を登りきった正面に不動堂が建っていた。不動堂の左側のコンクリートの壁の前に石塔が並んでいる。
、左 地蔵菩薩立像。下の台は二段になっていて、下の台に文字があり造立年月日と思われるがこれはうまく読めなかった。
上の台には正面と両側面に渡って三十名ほどの名前が刻まれている。
右 庚申塔 正徳3(1713)日月雲 青面金剛立像合掌型六臂。下部に二鶏、邪鬼、三猿がバランスよく彫られていた。
青面金剛は目が吊り上がりきりっとした表情をしている。右脇に「奉彫刻」続いて年号。さらに二世安樂処と刻まれていた。左脇 開眼師現住圓福天巖叟雲理勒之。この「天巖叟」は法蔵院の入り口左に立っていた庚申塔の銘にも見られる。
台の正面右端に武州豊嶋郡、左端に西臺村不動谷とあり、その間に十名の名前、両側面にもそれぞれ十名ほどの名前が刻まれていた。
不動通り東路傍 板橋区西台3-54
六の橋交差点方面から不動通りを南に歩く。はじめの信号を越えて200mほど、左手にある大きなマンションの手前の細い道を左に曲がり遊歩道を越え路地を進むと、四つ角のところに百葉箱のような風情の小堂があった。前回取り上げた京徳観音堂の前から坂道を不動通りに向けて降りてゆくとこの付近に出る。
正面から見ると上部は坐像、下部は正面に大きく「大山不動明王」と彫られた石塔だった。石塔の部分は柱があるだけで吹き曝しになっている。
不動明王坐像 天明2(1782)炎の光背。体は黒々としていた。
塔の右側面 上部に造立年月日。その下に武州豊嶋郡西臺村講中。脇に田畑世話人とある。左側面には東都澤安親書と刻まれている。
志村第五小学校東 馬頭観音堂 板橋区西台2-4
圓福寺から西台中央通りを北に歩き西台診療所あたりで斜め左に細い道を進むと、その先の三差路のところの住宅の前にお堂が立っていた。右の道を下ると善長寺に、左の道を行くと志村第五小学校に出る。
堂の中 馬頭観音立像 寛政2(1790)三面六臂。赤く彩色されていた。
像の下の塔の正面「門前谷念佛講中」右脇に年号。左脇に 南弥りま道。
右側面 武州豊嶋郡西臺村。奥には 東 戸田わたしば道と刻まれている。
左側面は 西 吹阿げ道 はやせ道。裏面に諸悪莫作・修善奉行と刻まれていた。
西台三丁目交差点南路傍 板橋区西台4-9
西台中央通りを南に進み、西徳通りとの交差点西台三丁目交差点を左折し、すぐ先を右折して一方通行の道を歩いてゆくと、その先の五差路の角の所に小堂が立っていた。
庚申塔 嘉永7(1854)かなり風化が進んでいるようだ。まわりには美しい花が供えられ、なぜかたくさんの柄杓が置かれていた。
近づいて見てもやはりはっきりしない。左手に持っているのはショケラだろう。後ろ下の手の弓矢はきれいに残っているが、足下のふくらみは邪鬼だろうか?二鶏、三猿もおぼつかない。
塔の左側面には年号。続いて願主は個人名が刻まれている。
こちらは右側面。左側面はしっかり見えるのに右側面は判読が難しい。右の字は圓福十四世・・・のような気もするが、判読不能というのが妥当だろう。