川越街道南側路傍 板橋区赤塚新町3-12
下赤塚駅から西に200mほど、川越街道の南側路傍に庚申塔が立っていた。
庚申塔 万延元年(1860)変わった形の自然石の正面に大きく「庚申塔」と刻む。
下の台の正面右上に小さく「新町」中央には大きく「講中」と刻まれている。
裏を見ると万延元庚申年 臘月再建とあった。臘月は十二月のこと。さらに
小さな字で昭和15年に道路改修のためにここに庚申塔を移転した時の寄付者
5名の名前が刻まれている。
台の左側面には 南 あらいやくし道。ここから練馬を抜けて新井薬師まで至る
道があったのだろう。寺社への参詣の道は大きな意味を持っていたようだ。
続いて 右 はやせ道。左 吹上道。戸田、和光への道を示している。
下赤塚駅北交番西向側路傍 板橋区赤塚2-1
下赤塚駅東の踏切の北、交差点の角のところに交番がある。道を隔てた西側の
路傍、パチンコ店と居酒屋に挟まれた空間に石塔が立っていた。
庚申塔 安政4(1857)風化が目立つ。塔の正面中央に「庚申塔」下の台には
梶山 講中 拾九人と刻まれていた。
塔の右側面に年号。左側面には文字が見えるが読み取れない。
台の左側面「左」とあり、地名が刻まれているように思われるが今の状態では
これも判断できなかった。
下赤塚駅北交番北向側路傍 板橋区赤塚1-9
交番の北側向い、洋品店の前にブロックに囲まれて石塔が並んでいた。
右 庚申塔 宝暦4(1754)日月 青面金剛立像 合掌型六臂。光背上部両脇に
造立年月日。右下に講中二十三人。左下に願主名が刻まれている。
足下に二鶏・邪鬼・三猿が彫られていた。顔もはっきりしない邪鬼は
はいはいする赤ちゃんのようだ。その手足は異常に細い。
左 中央を彫り窪めた中、蓮台の上には大日如来を表す梵字「バン」だろうか。
塔にも台にも銘は見られず、何のための石塔なのかはわからなかった。
赤塚健康福祉センター北路傍 板橋区赤塚1-36-10
下赤塚駅の東の踏み切りから松月院へ向かう赤塚中央通り。駅から北へ200mほど
歩きドラッグストアのある交差点を右折すると、右手の住宅のブロック塀の中に
庚申塔が祀られていた。写真右の道のすぐ先にドラッグストア、左の道の先には
赤塚健康福祉センターがある。
庚申塔 正徳3(1713)日月 青面金剛立像 合掌型六臂。江戸初期の古い石塔で
塔全体が溶けかかっていて文字も読みにくい。
がんばって読んでみた。光背上に「奉造立庚申」光背右に「供養塔」
右下 為現當二世安樂也。その左脇に年号が刻まれていた。
左下 願主 春日□右衛門。続いて同修二十四人と刻まれている。
足元に邪鬼の姿は無く、ただ三猿だけが彫られていた。
下赤塚小学校南路傍 板橋区赤塚2-15-7
赤塚中央通り、ドラッグストアのある交差点を今度は左に折れて150mほど歩き、
細い道を右に曲がった先の角に小堂が立っている。下赤塚小学校の南になる。
小堂の中 庚申塔 文化3(1806)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。
やはり像の表面はあまりはっきりしない。
足の両脇に二鶏。足下の邪鬼はなんだか土下座をしているようにも見える。
塔の右側面「奉納庚申供養二世安樂所」両脇に造立年月日が刻まれていた。
塔の左側面 上部に下赤塚村篠ケ谷戸。その下部に願主名があり、脇には
講中 三拾六人と刻まれている。
徳丸4丁目交差点北西路傍 板橋区赤塚7-2
新大宮バイパスの徳丸4丁目交差点から西の側道に入り北に歩く。そのすぐ先で
斜め左に坂道を登ってゆくと住宅地の中、東向きに三基の庚申塔が並んでいた。
右 庚申塔 宝永7(1710)駒型の石塔の中央を彫り窪めその外に日月雲を彫る。
中央に「奉造立庚講塔為二世安樂也」右脇に年号。左脇 武州豊嶋郡下赤塚村。
下部両脇に願主 十二人と刻まれていた。その下にはオーソドックスな三猿。
中央 庚申塔 貞享5(1688)珍しい舟形の石塔。やはり中央を彫り窪めてその中に
日月雲。中央「奉待庚申供養為二世安樂者也」両脇に造立年月日が刻まれている。
下部には同修行者 十一人。右縁に武州豊嶋郡下赤塚村。左縁に寺□村とあった。
その下にはこちらも正面を向いたオーソドックスな三猿が彫られている。
左 庚申塔 元禄16(1703)唐破風笠付角柱型。下の台の正面に三猿が彫られていた。
中央の猿は正面向き、両脇の二猿はそれぞれ内側を向いている。
石塔の正面中央をこれも薄く掘り窪めて中に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。
右の縁に年号。左の縁に武州豊嶋郡下赤塚村 同行七人と刻まれていた。
増福寺門前 板橋区赤塚7-14
赤塚7丁目の真ん中あたり、赤塚七丁目児童遊園の北向かい、増福寺の門の前の
小堂の中にお地蔵さまが祀られていた。
地蔵菩薩立像 正徳6(1716)今から300年前のもの。左手の宝珠は失われているが
立派な錫杖は健在で、袈裟の文様から足の先まで細かい彫りは残されている。
台の正面に武州豊嶋郡赤塚村。両側面には造立年月日が刻まれていた。
原堂墓地 板橋区赤塚3-15
成増方面から松月院通りを東に進むと、東上線との交差あたりから斜め左に
分かれてゆく道があり、その先は三園通りの赤塚五丁目交差点にぶつかる。
途中の赤塚三丁目交差点の100mほど先を右折すると右手の駐車場の奥に
墓地があった。墓地の中程にひときわ大きなお地蔵さまが立ち、その周りに
無縁仏が集められている。
地蔵菩薩立像 明和6(1769)立派な石塔に上に立ち全体の高さは2m近い。
錫杖も宝珠も健在。どこまでも丸いお顔だが、どことなく威厳がある。
塔の正面 梵字「カ」の下「奉造立地蔵尊」両脇に造立年月日を刻む。
塔の右側面 個人の戒名、その右脇 宝暦九(1759)は命日だろう。左脇に
武州豊嶋郡上赤塚村、続く施主名もまた個人名である。
左側面 やはり個人の戒名、脇にこちらも宝暦9年の命日。奥に祥雲□弥とある。
その奥に寛保三年(1743)これも戒名と命日だろう。10年前、同じ年に相次いで
二人の女性を亡くし、供養のためにこの地蔵像を個人の力で造立したものか。
施主は相当の財力をもっていたということになる。
左隣に板碑型の庚申塔 元禄14(1701)が立っていた。
正面中央 日月の間に「奉納庚申供養二世安樂所」右脇に武州豊嶋郡上赤塚村。
左脇に造立年月日。さらに施主敬白とあり11名の名前が刻まれている。
下部中央に美しく蓮の花。その下には三猿が彫られていた。
赤塚五丁目西交差点の南路傍 板橋区赤塚3-30
赤塚五丁目交差点に向かう途中の左手に比較的大きな規模の祠があった。
向かって左側に手水鉢があり、脇には寄り添うように石塔が立っている。
庚申塔 神社で見かける力石のような形の自然石の正面に大きく「庚申」と刻む。
右脇に「南無天尊如来」左脇に「南無阿命空雲佛」裏面ものぞいたがそれ以外に
文字は見当たらなかった。
三畝院 板橋区赤塚5-5
松月院通りを東に歩いてゆくと、左側に赤塚小学校があり続いて赤塚体育館が
建っている。その先の路地を左に入るとこじんまりとした墓地があった。門柱に
「三畝院」とあるが、正面の扉も右脇の扉も錠前がかかっていて中には入れない。
お堂の左手前に大きな自然石の石塔が立っていた。
梵字「カ」の下に線刻されているのは地蔵菩薩坐像 明治11(1878)蓮台の上に
坐したお地蔵さまの膝のあたりに子供の姿が描かれている。子育て地蔵だろう。
像の右に享和元年(1801)から明治11(1878)までの命日を持った四つの戒名が
刻まれ、左脇に明治十一年是立。その下の施主名は個人名だった。
右側の扉の先には庚申塔など、7基の石塔が並んでいた。近くで拝見したいが
今回はあきらめて、資料を参考にわかる範囲内で紹介することにする。
左側に大小二基の石塔。いずれも正面の一部しか確認できない。
左 聖観音菩薩立像。丸彫りの聖観音菩薩像は珍しい。遠目で文字などは確認
できないが、蓮の花も健在で生き生きとした表情も魅力的だ。資料を見ても
詳細は不明となっていた。
右 こちらはほぼ原形をとどめていない状態だが、中央に像の形が残っており
下の台の三猿から庚申塔と思われる。資料によると□養□□安樂、下赤塚などと
文字が見えるらしいが確認はできなかった。
右手前の二基。右の石塔の正面には念佛講中という文字が見える。角度がなく
あとの文字は判読できない。右側面には武州豊嶋郡下赤塚村、願主と読める。
資料にはこの石塔は解説されていなかった。左は地蔵菩薩立像 安永5(1776)
光背右脇に「かのへ講中」と見える。かのへ講は聞いたことがなく詳細不明。
奥に三基。右 丸彫りの地蔵菩薩立像。資料によると元禄7(1694)の造立。
顎のあたりの白カビが髭のようにみえ、体にも厚みがあり堂々とした印象だ。
隣 庚申塔 寛延3(1750)青面金剛立像 合掌型六臂。正面向きの邪鬼の頭を
踏みつけている。右側面に年号が見えるが左側面には「奉納庚申講成就所」
下赤塚村 講中十七人と刻まれているらしい。一番奥 庚申塔 享保3(1717)
日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。遠目で確認しにくいが足の下は三猿か?
資料によると右側面に「奉待庚申講諸願成就所」左側面に年号。その下には
下赤塚村 上谷講中十一人と刻まれているという。
赤塚図書館西路傍 板橋区赤塚5-8
松月院通りの赤塚図書館付近から北側に細い枝道がある。この道を西に進むと、
右手の角の家の前の植え込みの木の陰に庚申塔があった。三畝院墓地に行く度に
通ったところだが全く気が付かなかった。
庚申塔 宝暦2(1752)中央「奉造立庚申供養塔為二世安樂」上部両脇に造立年月日。
右下 願主 個人名。左下に講中八人と刻まれている。
泉福寺 板橋区赤塚6-39
松月院通りの南側に赤塚図書館がある。その東の細い道を右折し、突き当りを
左に折れると左手に泉福寺の入り口があった。境内の右側、弘法大師像の後ろに
四基の石塔が立っている。その奥には小型の板碑が集められていた。
右 回国供養塔 正徳3(1713)カビが多く、文字が読み取りにくい。
正面 上に「奉」その下の文字が削れていて途中「妙」「六十六部」「回國」と
読める。おそらく「奉読誦?大乗妙典六十六部日本回國」ではないだろうか。
脇の文字は上から「天下泰平國土安全」真ん中右から左に造立年月日。下には
右 武州赤塚村春日氏、左に法名が刻まれていた。
正面上部に彫られている像は風化のためはっきりしないが聖観音菩薩坐像か?
塔の両側面にも「春」とか「長」などの文字見えるが施主名の一部と思われる。
その隣 丸彫りの地蔵菩薩立像。錫杖も宝珠も失われていた。こちらも風化が進み、
全身をカビで覆われている。台の正面に文字が見えるがやはり読み取れなかった。
お地蔵様の足下から台にかけて比較的大きな穴がいくつも穿たれていた。
さらにその奥に聖観音菩薩立像 寛文12(1672)こちらは年代の割には綺麗だ。
光背右に戒名が刻まれ、個人の墓石。一番左の文字塔も個人の墓石だった。
野口庚申堂 板橋区赤塚5-14-9
泉福寺へ向けて右折したあたりで今度は北に左折して細い道を道なりに進むと
交差点の右手の角のところに小堂があり、中に二基の石塔が並んでいた。
庚申塔 宝暦13(1763)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。下部に二鶏
邪鬼、三猿が揃いバランスの良い構成になっている。
塔の左側面は狭く写真は撮れないが講中十八人と刻まれていた。右側面に年号。
その下には下赤塚村 野口と刻まれている。
隣の石塔は中央に文字の跡らしきものは見られるが、その上を線が交錯していて
詳細はわからなかった。ここにあるだけの理由はあるのだろうが・・・
小堂の中に手作りの解説が貼ってある。「野口庚申講」江戸時代から続く講が
今でも健在のようで、なんとなくうれしくなった
松月院大堂 板橋区赤塚6-40-4
泉福寺の入り口から東に歩くとすぐ大堂の入り口に出る。この大堂は南北朝時代に
建てられた阿弥陀堂で、当時は七堂伽藍を備えた区内最古の大寺院だったという。
戦国時代に戦火にあい衰退に向かい、江戸期には松月院の境外堂になったらしい。
堂に続く石段の右側に多くの石塔が立っていた。
石段の右、一番手前に石段供養塔 大正14(1925)由緒あるお寺の整備のために
この石段を講中ではなく一個人が奉納したもののようである。
その奥 庚申塔 嘉永2(1849)日月 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。坐像の
丸彫りは何度か見たが立像の丸彫り像はかなり珍しい。剣・ショケラは健在だが
全体に風化が進んでいる。
足下の邪鬼も丸彫りでそれ自体が青面金剛立像の台のようだ。その立体的な邪鬼の
下の台の正面に二鶏が彫られていた。左側面には番□免 講中と刻まれている。
台の右側面に年号。この角度から邪鬼の後ろ姿を見られるとは思いもしなかった。
これだけでもこの庚申塔は貴重なものと言えるのではないだろうか。
右の傾斜に大きな地蔵菩薩坐像 元治2(1865)台は三段になっていて一番上の台の
正面には「商人中」と彫られている。その上に塔身部。さらに蓮台の上に地蔵像。
丸彫りのお地蔵さまは頭の後ろに日輪光背を頂き、かすかに微笑んでいるようだ。
丸彫り像のため、残念ながら両手の先を欠いている。
塔身部の右側面に嘉永9年の命日と戒名、正面に明治12年の命日と戒名、さらに
左側面に明治23年の命日と戒名が刻まれていた。裏面には木の枝が迫っていて
写真は撮れなかったが、元治2年建立と刻まれている。
商人中と彫られた台のすぐ下の台の右側面に寄進連名とあり、上赤塚村、四葉村
徳丸村、西台村をはじめ近隣の15村の名前が刻まれていた。
正面にはやはり15の村名が刻まれているが、膝折、溝沼、岡、根岸、台などの
現在の朝霞市の各村、上新倉、下新倉、白子宿、牛房、など和光市の各村名が
見られる。合わせて30村。多くの村の助力があったことがうかがえる。
石段の途中、右側に七基の石塔が並んでいた。
右から 庚申塔 宝永3(1706)中央「奉造建庚申供養塔為現世安穏後生無比樂」
右脇に年号。その下に願主春日氏。左脇には武州豊嶋郡下赤塚郷。続けて
講衆 十五人と刻まれている。下部には大きな三猿が彫られていた。
その隣 庚申塔 寛文2(1662)中央「奉造立庚申供養石塔現當二世為安樂也」
上部両脇に造立年月日。下部両脇に願主 善根。さらにその下に三猿を彫る。
この三猿が中腰で並ぶ姿は面白い。三猿の下には8名の名前が刻まれていた。
3番目も庚申塔 元禄5(1692)あまり見かけない舟形の石塔の上部に日月雲を彫る。
中央「奉待庚申供養二世安樂攸」両脇に造立年月日。右下 武州豊嶋郡下赤塚村。
左下には講衆十一人 本願 春日次右ェ門と刻まれていた。下部には大きく三猿。
いずれも江戸初期造立の三猿庚申塔が三基並んでいる。
その奥に地蔵菩薩立像 元禄6(1693)丸彫りだが状態がよく美しい。下の台の中央
「為念佛供養」乃至法界平等利益。小さく年号。最後に下赤塚村と刻まれていた。
続いて地蔵菩薩立像 寛文4(1664)舟形光背型。古いものだがこちらも美しい。
光背右「奉□□念佛供養為・・・・」以下は一部文字が見えるがうまく読めない。
光背左「奉□□地蔵尊像一躰」その下に施主十三人敬白。両脇に造立年月日。
その奥に地蔵菩薩立像。ここでは唯一合掌型のお地蔵さま。光背右上が欠け、
文字が全体に読みにくく詳細はよくわからなかった。
最後に板碑型の石塔。文字が薄く字が読みにくい。下部にある文字は施主名か?
中央 やっと読めたのは「奉造立庚申供養石塔・・・・・・・」あとは難しい。
両脇にこれも薄く寛文4年(1664)の銘が刻まれている。下部には三猿ではなくて
蓮の花が彫られていた。
石段の登りきったあたり、参道の両脇に一対の六面幢 延宝7(1679)が立っていた。
六面のうち三面に地蔵菩薩立像を浮き彫りにしていて、左右で六地蔵となる。
六面の残りの三面のうち中央に「奉寄進阿弥陀堂」両脇の面に造立年月日、さらに
下赤塚村、春日伊兵衛と刻まれていた。赤塚石仏巡りではいろいろな所で春日氏の
名前を目にする。多分、地元の有力な家なのだろう。
松月院 板橋区赤塚8-4-9
松月院通りを東に進み新大宮バイパスに出る少し手前に松月院の入り口がある。
境内はかなり奥になるが、その参道の入り口付近は整備され、左側には大きな
石塔が並んでいた。
手前から昭和の銘のある新しい弘法大師像、忠魂碑に続いて、四段になった台に
地蔵菩薩立像 享保9(1724)が立っていた。蓮台の下の台の正面に卍を彫る。
その下の台の裏面 願主 牛耕 助主 大方 同 探淵、いずれも僧名と思われる。
さらに講中とあり、その下に上赤塚村三十七人、徳丸村十一人、四場村五人、
下赤塚村四十一人、続けて 助力 惣檀中と刻まれていた。また右側面には
万吉山松月禅院現住圓山音代造焉。続いて年号が刻まれている。
一番奥に地蔵菩薩坐像 昭和28(1953)大きな基壇の上に二段の台。上の台の
正面に「施無畏」下の台の正面に「無縁慰霊寶塔」その側面には年号とともに
多くの寄付者名と寄付金額が刻まれていた。
参道の左側、併設された幼稚園の壁の中に馬頭観世音が祀られている。
馬頭観音菩薩坐像 文久元年(1861)台の正面に「赤塚中」左側面に年号。
右側面は狭いが馬持中の文字が確認できた。
片膝を立てた馬頭観世音は三面六臂。丸彫り像だが彫りも細かく美しい。
幼稚園の先、山門の両側には長い塀が続いている。
左側の最後のところは部屋のようになっていて、四基の石仏が並んでいた。
左から 唐破風笠付の庚申塔。かなり風化が進んでいて文字などは確認できない。
中央に合掌型六臂の青面金剛像は間違いないが邪鬼、三猿は微妙だ。
隣 地蔵菩薩立像。これも風化がひどく、右手の錫杖と左手の宝珠は見えるが、
そのほかはさっぱりわからない。光背には文字の跡さえ見当たらなかった。
その奥に 丸彫りの地蔵菩薩立像。こちらも結構風化が進んでいる。像にも
台にも文字が見えず、詳細はわからない。資料によるとこのお地蔵さまに
供えた塩は歯痛止めに効果があると言い伝えられているらしい。
一番右 地蔵菩薩立像 元禄12(1699)丸顔で目鼻立ちもはっきりしている。
台の前面に武州下赤塚村。両脇に造立年月日が刻まれていた。台の上の面には
大きな穴がいくつも穿たれている。いろいろなところでこのような穴を見るが
なにかおまじないの一種だろうか?
美術館西路傍 板橋区赤塚5-26
松月院から北へ向かい急な下り坂を降りてゆく。途中にある美術館入り口交差点で
左折し、細い道路を道なりに進むとT字路の角の所に庚申塔が立っていた。
庚申塔 安永8(1779)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。青面金剛は足が細長く
ややスマートな体型をしている。下部に邪鬼と三猿。二鶏はいないようだ。
塔の右側面 武州豊嶋郡上赤塚村。その下に願主2名。さらにその下に7名の名前。
左側面には年号。下部に世話人3名、続いてその下に8名の名前が刻まれていた。
上赤塚観音堂 板橋区赤塚5-26
上の庚申塔の場所から西に向かい、郷土資料館の前から登ってくる広い道に出て
少し歩くと左側に上赤塚観音堂の墓地がある。門を入って右手、石の塀の前に
多くの石仏が並んでいた。
舟形光背を持つ四体の仏像。左から地蔵菩薩立像 寛文11(1671)光背右脇に
「奉成就念佛供養二世安樂」左脇に年号。下部に10名ほどの名前が見える。
江戸時代初期の石仏だが光背上部を欠くだけで比較的綺麗な状態を保つ。
続いて阿弥陀如来立像 延宝8(1680)光背右脇に「奉供養庚申為二世安樂也」
阿弥陀如来を主尊とする庚申塔。光背左に年号。さらに両脇に8名の名前を刻む。
右手の指先は欠けているが、300年以上の時を経てこの状態を保っているのは
驚きだ。ふっくらとした顔立ちで今にも何か語りだしそうな様子。
右隣に聖観音菩薩立像 寛文12(1672)光背右上に「奉造立庚申供養観音菩薩」
その両脇に造立年月日。光背左上「尊像為現當二世安樂者也」こちらの両脇には
武州豊嶋郡赤塚村と刻まれていた。これもまた庚申塔である。光背中程の両脇に
20名ほどの名前が見える。この石像も江戸初期のものと思えないほど美しい。
一番右 薬師如来立像 延宝4(1676)光背右「奉造立薬師如来像供養庚申二世安樂」
光背左に造立年月日。光背下の両脇に文字が見えるが読み取れない。江戸時代初期
まだ庚申塔の主尊として青面金剛が主流になる以前の、阿弥陀如来、聖観音菩薩、
薬師如来を主尊とする三基の庚申塔が揃っているのは素晴らしい。
手前に置かれた手水石 延宝7(1679)こちらも後ろの石像と同時期のものだ。
「奉寄進観音堂」赤塚郷とあり個人の名前が刻まれていた。その上部の縁あたり
ここにも多くの窪み穴が見られる。
門を入って左手にも二基の石塔が並んでいた。左は観音堂再建碑。
右 庚申塔 寛文7(1667)板碑型。中央上部にあの「謎のウハッキュウ」があった。
続いて「奉庚申供養現當二世安穏處」両脇に造立年月日が刻まれている。左下に
法心、願主だろう。下部に8名の名前。、さらにその下に三猿が彫られていた。
氷川神社参道入り口 板橋区赤塚4-16
郷土資料館の西150mほどのところに氷川神社がある。そのずっと南のほうから
長い参道が続いている。参道入り口近く、鳥居の先に庚申塔が立っていた。
左 庚申塔 明和4(1767)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。顔ははっきりしない。
邪鬼の下に版画のような二鶏。その下に彫られた三猿はチョコンとベンチに
腰を下ろしているかのようでとてもかわいらしい。塔の右側面に年号を刻む。
続いて武州豊嶋郡上赤塚村 講中拾六人。下の台の正面両脇に 右 ふき上道
左 屋くし道と刻まれていた。
中 庚申塔 万延元年(1860)自然石の表面を四角く磨き上げ、上部に日月、
中央に大きく「庚申塔」両脇に天下泰平・國土安全と刻まれている。
角度を変えてみると右脇に年号が刻まれていた。躍動感のある文字が美しい。
下の台の正面、それぞれ気ままに振る舞う三猿も楽しい。見沼区で見られる
岩槻石工の三猿と通ずるものがあるような気がするがどうだろう。台の側面は
隣の石塔との隙間がほとんどなく確認できなかった。
右 庚申塔 寛政12(1800)円柱型の石塔の正面 宝輪の下に「青面金剛尊」と彫る。
二段になった上の台の正面に武州豊嶋郡上赤塚村 願主は個人名 講中拾五人、
右側面には造立年月日が刻まれていた。
美術館東路傍 板橋区赤塚8-16
松月院から郷土資料館に向かう道の美術館前交差点を東に折れて、二つ目の道を
左折すると左手の住宅の塀の中に庚申塔。早朝から真新しい水が供えられていた。
庚申塔 宝暦5(1755)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。やはり像の表面が
丸くなり顔の表情などがはっきりしない。足の両脇に二鶏。頭を右向きにした
邪鬼の下に三猿を彫り、オーソドックスな構成となっている。
塔の右側面に「奉造立庚申供養塔」その右脇は青面石佛か。下部に早瀬、
大門村と地名が見える。
左側面上部に年号。続いて講中廿人。下部には左 吹上道と刻まれていた。
板橋区立郷土資料館 板橋区赤塚5-35-25
郷土資料館に入ると正面は中庭になっていて、奥には大きな古民家があった。
庭に出てすぐ右手を見ると資料館の外壁の前に石仏が並んでいる。
右 庚申塔 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち?六臂。塔の中央付近に
断裂の跡があり、剣、ショケラとも確認はできなかった。苔も目立つ。
風化が進んでいるが、塔の下部には二鶏・邪鬼・三猿が揃う。青面金剛の足も
力感にあふれていて、かなりの作品ではないだろうか。
塔の右側面 上部に南ハ 祢里ま 大山道。左脇「奉造立庚申供養塔為二世安樂」
右下に武州豊嶋郡 門前谷講中 金百匹 荒井氏と刻まれていた。
左側面 右上の年号の部分が削れているのは残念だ。左脇に東ハ いたばし 江戸道。
下部に西臺村、その右は円福寺だろうか。右側面にも門前谷講中とあり、どうやら
この庚申塔はもとは西台のほうにあったものらしい。
中央 庚申塔 享保8(1723)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。こちらもかなり
風化が進み中央に断裂跡が見える。青面金剛の右足脇に個人名が刻まれている。
足の下には正面向きの邪鬼、その下に三猿が半ば土に埋もれていた。
塔の右側面には大きな字で「奉造立青面金剛□為二世安樂也」
左側面に年号。下部には武州豊嶋郡上赤塚藪村、講中十二人と刻まれている。
左 不動明王立像 宝暦10(1760)台の正面に年号。さらに講中拾四人と刻む。
右手に剣、左手に羂索。炎の光背は派手なものではなく、忿怒相ではあるが、
それほど猛々しくはない。全体に静かで上品な佇まいと言えるだろう。
中庭の右手、植え込みの中にもいくつか石塔が立っていた。
右 馬頭観音塔 文政3(1820)中央に「馬頭観世音」脇に年号と施主名を刻む。
中央に石灯篭 延宝9(1681)「奉献上石燈籠兩基 東叡山 嚴有院殿 尊前」
上野寛永寺の四代将軍家綱の墓前に献上された一対の燈籠うちの一基らしい。
庚申塔 宝永元年(1704)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。両脇に造立年月日。
はっきりした彫り。足の両脇に二鶏。その下に三猿。邪鬼はいないようだ。
古民家を見物した後、裏口から外に出ると、緑色の金網の前に石塔が並んでいた。
右から 馬頭観音菩薩坐像 文政13(1830)忿怒相八臂。施主個人名を刻む。
地蔵菩薩立像 享保8(1723)こちらは個人の墓石のようだ。
聖観音菩薩立像 宝永5(1708)光背上部が欠け白カビも目立つ。光背左に年号。
その下に巣鴨村 念心と読める。光背右 参百日読誦?成就所と刻まれていた。
馬頭観音塔 正面に「馬頭観世音」側面に文字を刻んだ跡は見えるが削れていて
年号、地名など、詳細は不明だ。
続く石塔 正面上部に「大典記念」下部に 右 成増停車場 左 赤塚村役場と刻む。
大正天皇の即位大典の記念碑のようだ。右側面に大正4年の銘がある。左側面に
帝國在郷軍人會赤塚村と刻まれていた。
一番奥にポツンと庚申塔。珍しい形をしている。正面上部は日月だろうか?
その下に「庚申」その下に正三角形の構図に三猿がみえるが二猿は半ば土中に
埋まっていた。こちらも年号、地名、人名などはどこにも見当たらない。