中村の石仏

良辯塚 練馬区中村3-11


中村橋駅から中杉通を400mほど南へ進み、東に入ったあたりの三差路の角地に良辯塚があった。道路から見えるように南から北へ多くの石塔が並んでいる。


塚に入ると練馬区教育員会の解説板が立っていた。これによるとこの塚は南蔵院中興第一世の良辯僧都によって延文2年(1357)に建立された経塚。当時この場所は鎌倉街道の一つに面しており、街道から南蔵院に入る角にこの経塚を築いて供養し人々の幸せを願ったものだという。現在ここに集められた多くの石塔はこの街道筋に立っていたものなのだろう。


敷地の南には三基の石塔が並ぶ。左から庚申塔 元文5(1740)唐破風笠の正面に梵字「ウン」角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


日天・月天を載せた瑞雲の真ん中に小さな瑞雲がたなびく。像の右脇に武州豊嶋郡中村。左脇に造立年月日。像を中心に削ったような傷跡が見える。これも廃仏毀釈によるものだとしたら残念なことだ。


足元に邪鬼。その下のちょと変わった構図の三猿がかわいい。台の正面に大きな二鶏が浮き彫りされ、雄鶏と雌鶏の間に願主二名の名前が刻まれている。


塔の両側面には立派な蓮の花。その脇、左側面に 是より左ハ上祢りま道、右側面に 是より右ハ下祢りま道と刻まれ道標になっていた。


その隣に庚申塔 元禄10(1697)薄い駒型の正面を彫りくぼめた中、薬師如来を表す梵字「ベイ」の下に「庚申石塔國家安全 處」元禄期あたりまでは庚申塔の主尊はまだ多様で、像塔の場合は地蔵庚申塔、阿弥陀庚申塔などがあったが、この文字塔の場合は薬師如来を主尊とするものと考えるべきだろう。右脇に造立年月日。左脇には武州豊嶋郡中村 南蔵院。塔の下部に蓮の花が彫られていた。


右 道標 文政11(1828)角柱型の石塔の正面に「弘法大師」弘法大師ゆかりの霊場の道標になっている。


塔の右側面に右 福蔵院。調べてみると四国八十八ヶ所を模して宝暦5年(1755)に開創された「御府内八十八ヶ所霊場」の第14番が中野の福蔵院で、続く15番が中村の南蔵院だった。塔の裏面に造立年月日が刻まれている。


少し北へ移り、ポツンと東向きに立つ大乗妙典供養塔 明治30(1897)角柱型の石塔の正面、剥落したところが多い中に「奉納大乗妙典供養塔」とそこだけはしっかりと残っていた。右脇に天下泰平、左脇に日月清明。下の台は塔とは石質が異なり、あとからつけられたものだろう。


塔の右側面に造立年月日。一本のひもで補強されてかろうじて現状を保っているものの、雨風にさらされながらいずれ崩落ということになるのだろうか。


さらにその北、つつじの木に抱えられるように大乗妙典供養塔 元文5(1740)が立っていた。塔の正面 梵字「バク」の下に「奉納大乗妙典日城?廻國供養塔」城が本なら日本廻國になるが同じ意味だろうか?上部両脇に延文2(1357)年の紀年銘。これは良辯僧都がこの経塚を建立した年になる。右下に武州之住、左下に桑門良辯。塔の左側面を見ると南蔵院第9世住職がこの供養塔を再建したことがわかる。


つつじの枝をかき分けて左側面を見ると「従来良辯塚と呼ばれた・・・・」で始まる銘文の中に元文五庚申春の文字が確認できた。廻国僧でもあった良辯僧都が延文2(1357)年にこの経塚に造立した廻國供養塔を元文5(1740)年に当時の南蔵院御住職が再建されたものということだろう。

 


良辯塚は四方をフェンスで囲まれていて東側の道路沿フェンスの中の扉から出入りする。敷地内に入るとすぐ前に重厚な笠を持つ七面石幢 元文5(1740)が立っていた。脇の木の立て札に「石幢七面六観音勢至道しるべ」と記されている。


塔身部、七面それぞれを舟形光背の形に彫りくぼめた中に六観音と勢至菩薩像を浮き彫り。頭上には種子、像の下に蓮台。像は小さいがその彫りは丁寧で美しく生き生きとしている。二面づつ時計と逆回りに見てゆこう。左如意輪観音菩薩坐像。蓮台の下に村中寄進。右 聖観音菩薩立像。その下に講中 三拾八人。


続いて左 千手観音菩薩坐像。多面多臂像だが欠損なく完全な形を保ちゆるぎない。下には願主名。右 梵字「サク」の下に勢至菩薩坐像。蓮台の下には講中 拾六人。


左 馬頭観音菩薩坐像。一面八臂慈悲相。頭上の馬頭も明確。馬口印を結ぶ指の形もしっかり表現される。下には本願主名。右 十一面観音菩薩坐像。蓮台の下に造立年月日が刻まれていた。


一周して最後は左 准胝観音菩薩坐像 合掌六臂。蓮台の下に「光明真言十五万遍妙隆為二世安樂」


七面石幢の下の台は真四角で、四つの側面は東西南北それぞれの道標になっている。入口から見て正面、中央に南とあり、両脇に武州豊嶋郡 中村里。右側面 西 此方 た可いど 大山ミち。


左側面 北 此方 袮りま 川口ミち。裏面に 東 此方 なか野ミち 目ぐろみち と刻まれていた。


ここから北のほうに三基の庚申塔が並ぶ。左 庚申塔 寛文7(1667)最上部を大きく欠く。塔の正面中央「奉納庚申供養爲二世安樂也」両脇に造立年月日。下部両脇にも文字らしいものが見えるがうまく読み取れない。最下部に未敷蓮華が彫られていた。


最上部に三猿を浮き彫り。この形式自体が非常に珍しく、左の言わ猿の頭部の欠損がいかにも惜しい。


続いて庚申塔 元禄8(1695)江戸時代初期に多く見られる板碑型庚申塔。中央 梵字「ウン」の下「奉供養庚申待二世安樂攸」敬白。上部両脇に造立年月日。右下枠部に当郷講中とあり、中央下部に10名ほどの名前。塔の最下部には蓮が彫られている。


右 庚申塔 明和元年(1764)駒型の石塔の正面 梵字「ウン」日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


馬面の長い顔の青面金剛は珍しい。頭上のターバンのように見えるのは蛇だろうか?像の右脇の空間を奔放に使って「奉造立 庚申 講中 現當二世安樂所」左脇に造立年月日。


下部のほうも個性的。足の両脇に二鶏を半浮彫。青面金剛を背にしながら邪鬼は実に穏やかな顔をして寝ているかのようだ。その下のからくり人形のような三猿も動きがあって面白い。


塔の右側面には 右ハかうゑん寺高井戸通りと刻まれている。


左側面に武州中村郷講中二十人。その奥に 左 ぞうしかや通り。下部には願主名が刻まれていた。

街道筋という場所柄のためだろう、多くの石塔が道標を兼ねていた。現在、塚は削られて平らになっていて当時の姿をとどめてはいない。今は想像するしかないが、ここに立っている多くの石塔はあとからこちらに移されたもので、建立当時は経筒が埋納された塚に、良辯僧都が造立した大乗妙典廻国供養塔がポツンと立っていたのではないだろうか。

 

南蔵院 練馬区中村1-15-1


西武池袋線練馬駅の西、目白通りの中村北一丁目交差点から南に下り千川通りを横切って中野区方面に向かう「南蔵院通り」は広くまっすぐな道路で交通量も多い。目白通りから700mほど、道路右手に南蔵院の入口があった。参道を西に向かって歩いてゆくと左手に長屋門がある。そのあたりで参道はわかれ、ここから右へ行くと庫裏、本堂、まっすぐ行くと鐘楼門から西門、鐘楼門の少し手前から右に入るとすぐ左手に閻魔堂、正面に薬師堂となる。長屋門の向かい側、植え込みの中に角柱型の石塔が二基立っていた。こちらはいずれも道標で、いろいろ調べてみると境内には六基の道標があるという。なんとか五基は確認できたが残りの一基は見つからなかった。とりあえず五基の道標をあとでまとめて紹介したいと思う。


長屋門から鐘楼門へ向かう参道の左側、長屋門近くに新しい小堂が立っていた。周りには石灯籠や石塔が並んでいる。


堂の中 丸彫りの地蔵菩薩立像。通称「首つぎ地蔵」今回は確認できなかったが、一度離れた首を後からつないだのだという。以前は中村八幡神社の地蔵堂に祀られていたものが、2014年にこの場所へ移されたものらしい。堂の中にあるために細かく銘を探すことはできなかったが。蓮台も敷茄子もなく、下の台もあとからつけられたもののようで、どの資料をみても造立年は不明ということだった。


小堂の右手前 順礼供養塔 寛政11(1799)笠付き角柱型石塔。


正面を彫りくぼめた中に合掌して蓮台に立つ観音菩薩像を浮き彫り。左脇に造立年月日。その下に覚山とあるのは願主だろうか。


塔の右側面、梵字「サ」の下に「奉順禮西國秩父坂東百箇所供養佛」観音霊場順礼供養塔ということになる。左側面には俗名が刻まれていた。


その右隣 角柱型の六字名号塔。風化が進み両側面はともに完全に剥落。紀年銘などは見当たらず、正面、梵字「キリーク」の下に「南無阿弥陀佛」と、ここだけがかろうじて残っていた。


さて、境内で見かけた五基の角柱型の道標を見てみよう。1番目、長屋門の向かい側、参道右脇の植え込みの中、庭木に隠れるように南向きに立っている。塔の正面 向 高井戸道、右側面 右 南蔵院。


左側面には左 長命寺 子ノ権現と刻まれている。長命寺は高野台にある別名東高野山長命寺。子ノ権現は貫井にある圓光院と思われる。


2番目 長屋門付近から庫裏、本堂へ向かう参道の左側の庭の中、東向きに立つ。正面右上に小さく八十八箇所、中央に大きく「弘法大師」左側面に左 中村 南蔵院。


右側面には右 東高野山 長命寺と刻まれていた。


3番目 庫裏、本堂へ向かう参道の右側、西向きに立つ。


正面に「弘法大師」左側面に左 長命寺。右側面は無銘。裏面には文政11(1828)の紀年銘が刻まれている。


首つぎ地蔵の小堂から西の鐘楼門に向かう途中、参道左側の二つの境内社の近くに4番目の道標が北向きに立っていた。道標の右脇に小さな石仏が見える。


塔の正面右上に八十八箇所、中央に「弘法大師」左側面には左 ぞうしがや 高田 道。


右側面には右 長命寺 福蔵院と刻まれている。


右脇に立つ小さな丸彫りの魚籃観音菩薩立像。顔と胸のあたりは剥落。銘も見当たらず詳細は不明。両手に持ったかごの中に魚が見える。


鐘楼門の北に立つ焔魔堂の左手前に5番目の道標が西向きに立っていた。塔の正面に「弘法大師」


塔の左側面「御府内八十八ヶ所第十五番 瑠璃光山 南蔵院」続いてその横に阿州□養山國分寺□(移か?)四国八十八ヶ所霊場15番は国分寺でそれをここに移したものというのは普通に考えられるが、国分寺の山号は「薬王山」で山号を取り違えたものだろうか?


右側面 上部に文政9年の紀年銘。下部に鷺宮 福蔵院 十一丁。その横に谷原村とあるが続きは風化が著しく読めなかった。福蔵院は中野区白鷺にある古刹。南蔵院、長命寺、圓光院、福蔵院はいずれも真言宗豊山派の寺院で弘法大師ゆかりの霊場である。江戸時代後期にはこういった霊場巡りが一般に広く行われていたということだろう。

 


首つぎ地蔵の小堂から参道を西に進むと朱塗りの鐘楼門が立っていた。練馬区指定文化財になっていて、江戸時代中期の建築と考えられる区内唯一の鐘楼門だという。門の左右に仁王像を配し、上階に梵鐘が吊るされている。さらにその西にも入口があるが、鐘楼門の仁王像は西向きに立っていて、この西の入口が本来の参道入口と思われる。いつ行ってもその扉は施錠されていて出入りができず、この西の入口は現在使われていないようだ。


鐘楼門の右手前(西の入口から入ったと想定して)大きな丸彫りの地蔵菩薩像が立っていた。その左脇にも角柱型の石塔が見える。


地蔵菩薩立像 元禄9(1696)通称「北向き地蔵」大きな丸彫り像だが欠損なく、カビもほとんど見られず彫りは明快で美しい。円頂、白毫、右手に錫杖、左手に宝珠を持ち堂々と立つ。重厚な蓮台、敷茄子、反花を持った台と合わせるとその高さは3m近くなり、練馬区内最大の石地蔵だという。


蓮台の花弁に造立年月日。さらに「法印良盛」と刻まれていた。


その隣 大乗妙典供養塔 宝暦11(1761)角柱型の石塔の正面 阿弥陀三尊種子の下「大乗妙典供養塔」両脇に西國秩父坂東百ヶ所 四國八十八ヶ所 願成就。交通の発達していない当時に、合わせて188か所の霊場順礼を成し遂げたとしたら大変な偉業と言えるだろう。さらに右脇に造立年月日。左脇に武州豊嶋郡中村住とあり、下部に随法 清傳。法名か、土の中に文字が埋まっているのかもしれない。


塔の右側面「諸方一切有縁無縁二世安樂」左側面には俗名が刻まれていた。


東西に続く参道から北へ入ると、東のほうから庫裏、本堂、薬師堂、閻魔堂が立っている。本堂と薬師堂の間の前の庭のあたりにも宝篋印塔などの石塔が並んでいた。


東のほうから 敷石供養塔 明治45(1912)角柱型の石塔の正面に「敷石供養塔」左側面に本堂前敷石寄付者とあり、その下に三名の名前。さらにその横に造立年月日が刻まれている。


本堂と薬師堂をつなぐ渡り廊下の前あたりに両祖師供養塔。大きな基壇の上、二段の台に二基の角柱型石塔。真言宗の開祖 弘法大師、中興の祖とされる興教大師の名前が刻まれていた。台の正面に「瑠璃光山」と南蔵院の山号が刻まれている。


弘法大師と刻まれた石塔の裏面に紀年銘。明治4年(1871)だろうか?


二段の台の両側面と裏面に多くの名前が刻まれていた。側面には下鷺宮村、中新井村、下沼袋村など近隣の村、また東京牛込納戸町などの地名も見られる。


裏面 上の台の右上に當村檀中とあり、上下の台いっぱいに61名の名前。下の台の左端に石工名が刻まれていた。


薬師堂の前 宝篋印塔 享保13(1728)江戸時代中期らしい外反する隅飾を持つ。相輪の上部が欠けているようだ。塔身部四面に梵字を彫り、基礎の正面に「宝篋印塔」


基礎の裏面に願文。両側面には細かい梵字が刻まれている。


基礎の下、反花の付いた台の正面、右端に講中四十五人。続いて願主四名の名前。左端に造立年月日が刻まれていた。

 


薬師堂の西に墓地の入り口があった。墓地に入ってすぐ右手、コンクリートの塀の前に石塔が並んでいる。奥の二基は墓石だった。


右 光明真言供養塔 享保18(1733)石塔の正面上部に光明真言曼荼羅。その下に「奉供養光明真言□□□」両脇に造立年月日。


左 地蔵菩薩立像 明和3(1766)白カビがびっしりとこびりつき、銘を読み取るのは難しい。お地蔵様は静かな表情で佇んでいる。


そのまま墓地の奥のほうに進むと中央付近に歴代住職の墓地があった。西のほうに五輪塔が多く集まり、東のほうには南向きに多くの石塔が並んでいる。その中に元禄年間の銘のある丸彫りの地蔵菩薩立像、天明年間の銘のある首のもげた地蔵菩薩立像などが目についた。


上の石塔群と向かい合うように北向きにも多くの石塔が並んでいた。


奥のほうにこれも首のもげた地蔵像が立っている。


台の正面に「念佛講」両脇に紀年銘だが、ちょうどこの部分に剥落があり、□保九とだけ見え、続く干支は一部しか残っていない。考えられるのは二つ。享保9年の干支は甲辰、天保9年の干支は戊戌。ここに残った干支の一部は甲のように見え、この地蔵像の造立は享保9(1724)年と考えたい。台の左側面には講中十六人と刻まれていた。


墓地に入ってすぐ左側に曲がると、二つの雨除けの下にそれぞれ二基の石塔が並んでいる。


左の雨除けの下。明治15年造立の川施餓鬼供養塔の横に地蔵菩薩立像。唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 像の部分の多くは剥ぎとられていて、かすかに錫杖、宝珠を持つ地蔵菩薩像らしい姿が見える。足元には蓮の花か?


塔の右側面 左 中村 南蔵院へ。右側面にも□□□道とあるが損傷が大きすぎ読み取ることはできなかった。


奥の雨除けの下 二基の丸彫りの地蔵菩薩立像が並ぶ。どちらも頭の後ろに円形の頭光背を持ち、像のサイズは異なるものの、蓮台などの様子も似ていて、二基は一つのセットのように見える。雨除けの柱には「日川地蔵尊」と刻まれていた。いろいろ調べてみてわかったのはここに並ぶ四基の石塔はいずれも千川用水沿いにあったもので、用水の暗渠化に伴ってマンション建設などのためにやむなくここ南蔵院に移設されたものらしい。日川地蔵尊は昭和15年の造立で、千川用水で溺死した子供たちの供養のために建立されたものだという。


そのすぐ南、ブロック塀の前に大型の庚申塔 寛政12(1800)が立っていた。唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


足元の邪鬼は右手で頬杖というリラックスしたポーズでふてぶてしい。邪鬼の両脇に小さな二鶏。下部には丸い三猿がうつむき加減に座る。下の台の正面 中央に「北」とあり、その下に多くの名前が刻まれていた。


塔の右側面に造立年月日。続いて武州豊嶋郡中村。台の右側面には 西 せき 石神井と刻まれている。


塔の左側面 天下泰平 國土安穏。台の左側面には 東 高井戸 大山 堀之内と刻まれていた。


さらに南に進むと墓地専用の出入口?があった。その手前左側、雨除けの下に六地蔵が祀られている。


六地蔵の左脇 聖観音菩薩立像 元文元年(1736)鋭角的な舟形光背の上部に梵字「サ」その下に左手に蓮を持ち右手は与願印の聖観音菩薩立像を浮き彫り。光背右脇「奉唱念光明真言二百七十万遍供養佛」左脇に造立年月日。その下に施主は個人名が刻まれていた。


丸彫りの六地蔵菩薩立像 享保9(1724)六体のうち三体は顔がつぶされていて、残りの三体は顔がよく似ている。蓮台の下の台の銘も、左から三番目(無銘)をのぞいてあとはほぼ同じ内容だった。


台の正面中央に「念佛講中」右脇に男女三十八人。左脇に願主個人名。左側面に造立年月日が刻まれている。


台の右側面には武州豊嶋郡中村と刻まれていた。

 

南蔵院南十字路角 練馬区中村南1-26


南蔵院の東の入口から500mほど南の交差点の北西の角のところ、雨除けの下に庚申塔が立っていた。


庚申塔 安永6(1777)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。青面金剛の足元で邪鬼は磐座に腹ばいになっている。その下に 南 中の道。台の正面に三猿が彫られていた。


塔の右側面 北 なんぞういん江二丁。その横に薬師如来と見えるがその下の字は読み取れない。続いて東 ぞうしがや道。塔の下部に願主四名の名前が刻まれていた。


左側面 西 せき 志やくじいミち。下部に三名の名前。裏面に造立年月日が刻まれている。

田中稲荷神社南路傍 練馬区中村南2-19-22


上の庚申塔の交差点から西に400mほど進むと、交差点の角の壁の中、雨除けの下に二基の石仏が祀られていた。


左 地蔵菩薩立像。舟形光背に延命地蔵を浮き彫り。光背上部が大きく欠けていて造立年は不明。光背右脇「(奉)造立念佛供養」


足元の部分に願主二名の名前。左脇に講中四十人と刻まれている。


右 聖観音菩薩立像 元文5(1740)舟形光背、梵字「サ」の下に、左手に蓮華を持ち左手与願印の聖観音菩薩像を浮き彫り。頭部を大きく削られていた。光背右脇に造立年月日。その下に施主は個人名。右脇に「願成就為二親兄弟二世安樂」どうやらこちらは講中仏ではなく、個人の供養塔のようだ。

水道局前交差点西路傍 練馬区中村2-5


千川通りから南蔵院通りに入って200mほど南の水道局前交差点から西に向かい、初めての信号交差点の手前を右に入ると、道路左手、住宅の隅に小堂が立っていた。


小堂の中 地蔵菩薩立像 文化13(1816)丸彫りのお地蔵様はふくよかなお顔。頭の後ろには円形の頭光背。


台の正面、銘は薄くなっていて一部は読めない。中央「念佛講中十八人」右脇に南 中町□□りの□□道。左脇に願主は個人名。側面は狭く、なんとか銘は確認できたが写真は撮れなかった。台の右側面に造立年月日。続いて 右 江戸道。左側面に武州豊嶋郡中村。その奥に左 □□□□ミち のように見える。道標になっていて街道の辻に立っていたものかもしれない。

九頭龍弁天 練馬区中村北4-12


中村橋駅の西、千川通りとその北側の側道との間のグリーンベルトの端に石塔が並んでいた。大きな基壇の上の祠の中に弁才天が祀られているらしい。もともとは九頭龍橋のたもとにあったもので九頭龍弁天というようだ。


右端から 子育て地蔵尊像 昭和31(1956)石塔の正面を舟形に深く彫りくぼめて、その中に子供を抱き片手で拝む地蔵像を浮き彫り。千川上水で溺死した母子を悼んで近隣の有志が造立したものだという。裏面に造立年月日。続いて施主四名の名前が刻まれていた。


大きな基壇の上、中央あたり、弘法大師供養との隣に庚申塔 昭和49(1974)角柱型の石塔の正面に大きく「子庚申」と彫られていた。