開進第四中学校南路傍 練馬区羽沢3-30
氷川台の荘厳寺の東入口前の信号交差点から住宅街の中を南に進み、氷川台三丁目交差点を左折。石神井川を越えて150mほど、開進四中前交差点の先の右側の公園?の角に小堂が立っていた。
小堂の中 左 地蔵菩薩立像 元文6(1741)錫杖宝珠を持つ丸彫りの延命地蔵。欠損なくいきれいな状態を保っている。台の正面「為法界」両脇に造立年月日。
右側面に下練馬前湿化味村 願主講中。左側面にはひらがなで8名の名前が刻まれていた。
右 庚申塔 明和4(1767)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。これもカビなどが目立たずよく手入れがされている。熱心な講中の人たちのおかげなのだろう。
口をへの字に青面金剛。隣のお地蔵様ともども、目が黒く塗られているのはご愛敬。第3手の腕が第2手と同じように上に曲がって弓矢を持つ形は意外に少ないと思う。
足元の正面向きの邪鬼。これも口をへの字にぐっとにらんでいるようだが、やはり愛嬌がありほほえましい。その下の三猿はユニーク。中央の言わ猿がうつぶせになる形は初めて見た。岩槻型の奔放な三猿とはまた違ったタイプの自由な三猿と言えるだろう。
塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。続いて講中二十人。その下に世話役とあり2名の名前が刻まれていた。
羽沢二丁目交差点北路傍 練馬区羽沢2-9
開進4中のあたりから練馬区と板橋区の境の道を南を下ってゆくと環七通りの羽沢二丁目交差点に出る。その手前の交差点を右折してしばらく行くと、左側の住宅の角に小堂が立っていた。
小堂の中 觀世音菩薩坐像 安永6(1777)駒型の石塔の正面
梵字「サ」の下に円形の頭光背を持った六臂の觀世音菩薩坐像を浮き彫り。第1手が合掌、第2手に未敷蓮華と棒状の武器?第3手に鈴と房の付いた短い棒。多臂像なので聖観音菩薩ではないが、どの変化観音とすべきかはわからない。女性的な優しいお姿は准胝観音あたりだろうか?像の右脇に下練馬村羽根澤講中。左脇には造立年月日が刻まれていた。
新桜台駅北東路傍 練馬区羽沢2-2
上の道は環七通りの北を並行して新桜台駅付近で環七通りに合流するが、たぶんこの狭い道路が昔からの旧道なのではないだろうか。環七通りに合流する少し前の三差路の角のところにお堂が立っていた。写真の左に見える信号は環七通りの信号、右の道を進むと環七通りの新桜台駅入口のところに出る。
お堂の中
丸彫りの地蔵菩薩立像。赤い帽子とマントにすっぽりくるまれてどうにもその様子がわからない。お堂脇に立つ解説板には「放光王地蔵由来」とあり、それによるとこの「放光王地蔵」は別名「北向き地蔵」とも呼ばれ俗にいう羽沢三佛の一つで、童子のお姿で長いあいだ地域の人たちに親しまれ、多くのご利益を示してきたという。残念ながら造立年などについてははっきりしたことは書かれていなかった。
小竹図書館東空き地 練馬区小竹町1-18
新桜台駅のあたりで環七通りを渡って東に進むと小竹図書館がある。図書館の南の道をさらに東に30mほど行くと道は下り坂になり、その坂の途中、右手の空き地に五基の石塔が並んでいた。空き地は雑草が生い茂り整地もされていないが、どの石塔にも新しいお花や飲み物が供えられている。写真右側の坂道が小竹図書館方面から下りてきた道。降りきって左折すると小竹向原駅方面に出る。
右端 庚申塔 元禄11(1698)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、上部に梵字「ア」その下に「奉寄進庚供養」両脇に造立年月日。
下の台の正面、ツユクサなどで見えなかったのだが、カビと苔にまみれて三猿が彫られていた。
塔の右側面 武州戸嶋郡 上板橋小竹村?とあり、願主は個人名、左側面に同行九人と刻まれている。
その隣 地蔵菩薩立像 延宝8(1680)美しい舟形の光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。
錫杖・宝珠とも健在。丸顔で豊かな耳朶を持ち凛とした顔立ち。光背右脇「奉造立庚申供養二世安樂所」続いて武州豊嶋郡上板橋村とあり2名の名前。光背左脇に造立年月日。その下には9名の名前が刻まれていた。
足元には大きな三猿が彫られていて、江戸時代初期に多く見られる典型的な「地蔵庚申塔」と言えるだろう。
3番目 庚申塔 明和9(1772)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。彫りは厚く明快。顔にも傷が無くきれいな状態。冠型の髪の中央に見えるのは蛇だろうか?
足元の邪鬼は強情そうな顔でうずくまる。その横に二鶏は薄く半浮き彫り。下部にはしっかりとした三猿が彫られていた。
塔の右側面に造立年月日。左側面には講中二十六人と刻まれている。
続いて庚申塔 寛文13(1673)江戸時代初期に多く見る板碑型の三猿庚申塔。塔の最下部には美しく蓮の花が彫られていた。
正面を彫りくぼめて、中央に「奉造立庚申供養二世安樂所」両脇に造立年月日。その銘の間に十数人の名前。下部にあまり猿らしくない三猿?その両脇に念佛光同行 十八人。枠の部分に上板橋村 施主 敬白と刻まれていた。
左端 庚申塔 享保2(1717)駒型の石塔の正面 梵字「ア」の下に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。顔の中央がつぶされてへこんでいる。
足の両脇にごく薄く二鶏。足元の邪鬼は顔がはっきりしない。その下に三猿。邪鬼三猿とも同じような大きさで、この部分はまるでレリーフ画を見るようだ。その右脇に施主等八人敬白、左脇に願主は個人名。
塔の右側面「奉新造立石塔一基為二世安樂也」左側面に造立年月日。さらに武州豊嶋郡上板橋小竹村と刻まれていた。以上、五基とも庚申塔、それもタイプが異なる庚申塔が一か所に揃っているのは大変珍しい。
江古田駅北口旧埼玉道路傍 練馬区栄町46-1
西武池袋線江古田駅北口から西に向かい環七通りを目指して商店街の道を歩いてゆくと、右手、交差点の角のところに小堂が立っていた。写真左に続くこの道は早宮の石仏の時に出ていた旧「埼玉道」で、江古田駅の南あたりで千川通りから北西に分かれて氷川台駅の近くで石神井川を渡り、下赤塚を通って笹目橋方面(昔は早瀬の渡し場)へ抜けてゆく主要な街道だったらしい。
小堂の中 庚申塔 明和2(1765)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。
下部がなかなか面白い。足元の邪鬼はとぼけた顔をして、首を大きくかしげて四つん這い。両脇に二鶏を半浮彫。三猿は足を延ばして思い思いに座る。あまり見たことのない躍動的な三猿だ。
塔の左側面に造立年月日。右側面には下練馬村内羽根沢講中廿四人 願主敬白と刻まれていた。
能満寺 練馬区旭丘2-15-4
西武池袋線江古田駅北口から東に向かい信号交差点を越えた先の広い道は、右手に日本大学藝術学部、旭丘中学校と学校が続く。旭丘中学校の東の細い道を学校に沿って南に進み、道なりに下り坂を降りきったあたりをまた右に曲がって50mほど歩くと右側に能満寺の入口がある。入口から入ってすぐ左、鉄の柵の中に多くの石仏が並んでいた。
左から二体の丸彫りの地蔵菩薩立像。銘が無く詳細はわからないのだが、その様子から六地蔵のうちの二体が残ったものと思われる。
その隣 丸彫りの地蔵菩薩立像 享保16(1731)重厚な蓮台の下に反花の付いた台、その下には前面に蓮の花を彫った台と豪華な構成で、合わせると高さは2mを優に超す。錫杖宝珠も整い尊顔も凛々しい。
台の正面 右から左へ銘は二段。「奉造立地蔵尊像□□二世諸願円満所?」土埃がたまっていて読みにくい。台の右側面に造立年月日が刻まれていた。
続いて庚申塔 享保13(1728)駒型の石塔の正面 日月雲の下を舟形光背の形に薄く彫りくぼめた中に 三眼の青面金剛立像 合掌型六臂。像の右脇「奉造立青面金剛尊講中」左脇に「八人現當諸願如意滿足所」
足元にはふんどし姿の邪鬼が横たわり、その下に比較的大きな三猿。塔の右側面に造立年月日。左側面に武州豊嶋郡上板橋村と刻まれていた。
右端 丸彫りの合掌型地蔵菩薩立像。こちらも銘が無い。はじめは左端の二体とともに六地蔵のうちの一つかと思ったのだが、サイズ、台の様子がややしっくりこない。判断材料が少なく詳細は不明。
ポツンと離れて小堂の中 地蔵菩薩立像。白いレースの衣装を着こんでいる。銘などは確認できずこちらも詳細は不明だが、鉄の柵の前の旗にあった「千川地蔵」とはこちらのお地蔵さまのことらしい。顔だけはしっかりと見えるが体の部分と色が違っていて、どうやら頭部はあとから補修されたもののようだ。
石仏の並んでいた入口から山門までは結構長い上り坂で、参道はあまり整備されてはいないが、そのためにかえって趣があって風情が感じられる独特の空間になっていた。
山門を入ってまっすぐ進むと大日堂の横を通って本堂に向かうことになる。山門の裏、左側には水場があり、その奥は墓地になっていた。墓地の入り口付近は右側に新しい六地蔵が並び、左側には古い石仏が集められている。
水場のすぐ先、二基の舟形光背型の美しい石仏が並んでいた。
左 庚申塔 元禄10(1697)舟形光背の右上を大きく欠く。梵字「イ」の下に薬壺?を両手で持つ地蔵菩薩立像を浮き彫り。薄く目を閉じて静かな表情をしている。光背右脇「奉新造立庚申供養二世安樂祈所」左脇に造立年月日。その下に武州豊嶋郡上板橋村能滿寺。足元には本願とあり10名の名前が刻まれていた。
右 庚申塔 延宝4(1676)きれいな形の舟形光背、上部に梵字「カ」その下に厳格な顔立ちの地蔵菩薩立像を浮き彫り。錫杖宝珠を持つ。光背右脇「奉新造庚申供養二世安樂処」左脇に造立年月日。
光背右下 敬白の下に6名の名前、光背左下に願主□□とあり、その下に7名の名前が刻まれていた。
その奥 小堂の中には三基の石仏が祀られていた。
左 庚申塔 享保10(1725)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。塔の全体が風化の為摩耗していて、青面金剛の顔はつぶされていた。像の右脇「奉造立供養青面金剛尊為講中二世安樂」左側面に造立年月日。その下に武州豊嶋郡上板橋。
足元の邪鬼と三猿は磐座の中に彫られているが、摩耗が著しくはっきりしない。三猿の下の部分には講中八人と刻まれていた。
中央 地蔵菩薩立像 享保元年(1716)丸彫りのお地蔵さまは重ね着で着ぶくれしていて、像の様子は全く分からない。赤いマントの下には古びた衣装がそのままになっていて異様な雰囲気だ。わずかにのぞいた顔は目鼻が無く、あとから補修されたときにとりあえず石を置いたという感じがする。
台の正面中央に「奉新造立地蔵尊像(?)」右脇に講中拾肋人、左脇に為二世安樂也。
台の左側面に武州豊嶋郡上板橋村。右側面に造立年月日。続いて右ハ・・・地名だろうが今回はしっかり検証できなかった。左脇には乃至法界平等利益と刻まれていた。
右 地蔵菩薩立像。こちらも重ね着をされた丸彫りのお地蔵様。帽子を目深にかぶっているがその顔には目鼻がない。台に銘は無く詳細はわからないが個人の墓石とは思えない。像の裏に銘があるのかもしれないがいつの日か日の目を見ることはあるだろうか?
小堂の左脇、庚申塔の近くに二体のお地蔵様。ここまで重ね着をするとなにがなんだか、本当にお地蔵様なの?といわれそうだ。古い石仏に触れることはできないので本当のところはわからない。左のほうは素朴な石のお顔だが、右のほうは大きな帽子の下に無垢な童子らしい顔が浮かび上がりハッとさせられる。