高松・谷原の石仏

八雲神社 練馬区高松5-14


笹目通りの高松六丁目交差点から広い道路を東に向かい、次の交差点を左折、北へ進むと道路左側の歩道の奥に八雲神社がある。新しい石鳥居の右脇に庚申塔が立っていた。


庚申塔 正徳元年(1711)唐破風笠付きの角柱型石塔。いつもたくさんの花が供えられている。


正面上部に日月雲。その下を彫りくぼめた中に青面金剛立像 合掌型六臂。像の風化も少なく、銘も読みやすい。青面金剛は怖い顔をしているが、なで肩の体形のためかどこか優しそうに感じる。像の右脇 武州豊嶋郡上練馬之内、左脇に高松村同行十七人と刻まれていた。


足元の邪鬼は力なく横たわり、その下には三猿。両脇の猿がどちらも外を向き、背を丸くして顔を覆って座る姿はまるでかくれんぼの鬼のようだ。


塔の左側面に造立年月日。右側面には「奉造営庚申尊像一基二世安樂祈所」と刻まれていた。

光が丘第二中学校南路傍 練馬区高松4-19-12


笹目通りの谷原三丁目交差点から光が丘南通りを東に向かい、左が丘第二中学校の手前のT字路交差点を右折、100mほど先の交差点の左角の住宅の入口付近に小堂が立っていた。写真左の歩道の付いた広い道を行くと光が丘南通りの信号交差点に出る。


小堂の中、正面に「馬頭観音」と刻まれた大きな角柱型の石塔の上に馬頭観音坐像 文化6(1809)江戸時代中期以降、像塔に代わってじょじょに文字塔が増え馬頭観音塔が簡素化するなか、蓮台、敷茄子も豪華で本格的な馬頭観音塔といってもいいだろう。


舟形光背に三面の馬頭観音坐像を浮き彫り。頭上の馬頭もくっきり。資料では八臂だというがどうもはっきりしない。馬口印を組む第1手の下、おなかの前で四つ目の手が組まれているのかもしれない。


台の正面、線香立てに隠れているが、右に造立年月日。続いて武州豊嶋郡上練馬村高松と刻まれていた。


小堂の側面の隙間から覗くと、文字は薄くなっているが石塔の左側面に左 大山 東かうやさん道と見える。

右側面には 右 所さわみち。このあたりは本当に道標が多い。富士大山道をはじめ付近に多くの街道があり、交通の発達した地域だったということなのだろう。

 

谷原延命地蔵 練馬区谷原1-17


江戸時代、江戸をはじめ関東各地で大山参りが盛んになり、大山への参詣者が各地から通る道は「大山道」大山の先の富士参詣の道でもあることから「ふじ大山道」とも呼ばれた。練馬における「ふじ大山道」は現在の北町から春日町の愛染院の南を通り、そのまままっすぐに西に向かい、谷原を通り、石神井公園の北をまっすぐに保谷方面に向かう、現在の「富士街道」になる。前回見た、光が丘第二中学校南の馬頭観音のあったところから南へ200mほど進むと、この富士街道の交差点に出る。この交差点を右折して200mほど先の三差路に小堂が立っていた。小堂の前の立て札に、はしど(現在の大泉学園付近)道、ふじ大山道とあり、ここがその分岐点だったことがわかる。


小堂の中 地蔵菩薩立像 安永4(1775)錫杖・宝珠を持つ丸彫りの石地蔵。大きな欠損もなく、蓮台、敷茄子、角柱型の石塔と揃い、どっしりとした存在感がある。


角柱型の石塔の正面中央に「念佛講中 二十人 惣村中」右脇に武州豊嶋郡谷原村、左脇に造立年月日が刻まれていた。


塔の右側面には右 はしど道、左側面には 左 たなし道 大山道 と刻まれていて、道標を兼ねていたことがわかる。

大山道谷原変電所西交差点 練馬区谷原1-9


富士街道をさらに300mほど進む。谷原の交差点が見えてくるあたり、道路左側の交差点の角のところに石塔が立っていた。


道標。石塔の表面は風化が著しい。正面の文字はほとんど読めないが、文字数が五文字のように思え、「馬頭觀世音」かなぁとあてずっぽうに思ってみる。左下に二丁と見えるがその上の地名?は解読できなかった。


塔の左側面はやはり風化の為、銘などは確認できない。右側面だけはいくらか読める状態だった。右のほうから 西 田無宿 二里、府中宿 三里?東 練馬宿、くらいだろうか。以下はうまく読めない。


下の台の正面にかなり大きな文字が彫られていた。頭の部分しか見えないが、これを掘り出せばこの石塔の正体がわかるかもしれない。江戸時代後期、道標を兼ねた馬頭観音塔あたりだとしっくりくるが、果たして・・・

大山道谷原交差点東住宅前 練馬区谷原1-11


さらに谷原方面に進んですぐ右側の住宅の外構の一角に石塔が立っていた。


馬頭観音塔 明治年間造立。角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」


塔の左側面に施主とあり四代目 上原定五郎。代々同じ名前を名乗るほどの家だったのだろう。


塔の左側面下部に明治とだけあり年月日は確認できない。裏面に大東亜戦移転破損。現在の塔は七代目が再建したもののようだ。

高松小学校正門北民家庭 練馬区高松3-1


前回見た谷原延命地蔵の三差路から「大山道」を東に進み、はじめの信号交差点の少し先で右折して細い道に入ると、道はすぐ左にカーブして、またすぐ右にカーブ、そのまま南に進むと正面に高松小学校があった。正門の前、T字路の角の民家の庭の隅に小堂が立っている。


庚申塔 明治25(1892)個人の宅地内のため、正面の写真だけしか撮れなかった。駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛の髪の中にのぞいて見えるのはドクロか?ショケラはこけしのようで痛々しさはみじんもない。足元には大きな邪鬼。二鶏はともかく三猿までも見当たらないのは寂しい。塔の左側面に造立年月日。続いて施主だろうか、個人名が刻まれている。

さかえ幼稚園西角 練馬区高松4-9


谷原延命地蔵の東の信号交差点から「大山道」を東に400mほど進むと道路左側、幼稚園のある交差点の角に小堂が立っていた。


庚申塔 元禄5(1692)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。像の表面は摩耗し丸くなっている。三角形の髪の真ん中は蛇だろうか?


元禄期頃の青面金剛像でよくあることだが足元に邪鬼がいない。ここでは二鶏も見当たらず下部に三猿だけが彫られていた。


塔の左側面中央に造立年月日。続いて右下に上練馬高松村結衆 施主廿五人。右側面には「奉造立庚申石塔一基二世安樂祈所敬白」と刻まれている。

高松小学校南三差路 練馬区高松3-12


高松小学校の東の細い道を南に進むとやがて広いバス通りに出る。そのT字路交差点の角に小堂が立っていた。周りに生け垣があり、側面の撮影は難しい。


庚申塔 元禄11(1698)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。青面金剛は磐座の上に立ち、これも邪鬼、二鶏は見当たらない。正面向きの三猿は風化が進み摩耗している。塔の左側面 蓮の花の間に武州豊嶋郡上練馬之内西高松村。右側面にも蓮の花が彫られ、願主 個人名 同行二十人と刻まれている。


青面金剛の顔はやはりつぶされていた。像の右脇「奉造立庚申石像一基諸願成就祈所」左脇には造立年月日が刻まれている。

道楽橋西交差点 練馬区高松2-3


バス通りを東に進むと下り坂になり、その先で環八通りの信号交差点を越える。次の信号交差点の角に二基の石塔が並んでいた。


左 庚申塔 正徳5(1715)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面中央を彫りくぼめて外に日月雲、中に 青面金剛立像 合掌型六臂。彫りは細かく美しい。脇に立つ解説板によるとこの庚申塔は通称「高松の庚申塔」と呼ばれ、練馬区に現存する130余りの庚申塔の中でもっとも大きなものだという。


青面金剛と同じく、足元の邪鬼も目のあたりがつぶされていた。脇に比較的しっかりとした二鶏。下部に正面向きの三猿が彫られている。


塔の左側面に「奉供養庚申二世安樂祈所」銘はくっきりと彫られていて読みやすい。


右側面に造立年月日。その下には施主廿六人。左脇に武刕豊嶋郡上練馬高松村 敬白と刻まれていた。


右 敷石供養塔 文化4(1807)角柱型の石塔。上部の一部が崩落、下部も一部剥落。正面中央に「敷石供養塔」両脇に天下泰平・國土安穏。側面に細かい文字でたくさんの地名が刻まれているが、その中には埼玉県の村の名前も見られ、広範囲の地域の人たちがこの敷石供養塔の造立に協力したことがわかる。

練馬中学校東路傍 練馬区高松1-22


道楽橋西信号交差点から北東に進むと左手に八幡神社、さらにその先の交差点を左折して坂道を登ってゆくと高松中学校がある。その東のテニススクールのあるブロックの東南の角のあたりに小堂が立っていた。


庚申塔 寛文3(1663)板碑型の石塔の正面 中央に三猿を、下部に大きな蓮の花を彫る。江戸時代初期特有の三猿庚申塔。


風化が著しく銘はいたって読みにくい。三猿の上のほうに造立年月日がなんとか読み取れる。三猿の下の部分にも文字らしいものが見え、おそらくは講衆の名前と思われるが、はっきりと読み取ることはできなかった。

 

虚空蔵堂墓地 練馬区高松3-9


練馬陸橋交差点から環八通りを春日町方面に向かい、100mほど先を左折してしばらく進むと、交差点の角のところに墓地があった。入口の門扉の左脇に石地蔵が並んでいる。門扉のすぐ脇のブロック塀の前の小さな丸彫りの石地蔵は新しいもので、参道に向かって立つ五基の石地蔵はほぼ江戸時代のもののようだ。


五基のうち左端 地蔵菩薩立像。五基のうち左から四基はいずれも丸彫り。尊顔は一部破損、錫杖も下部を欠くが、衲衣や指先まで彫りは細かい。


蓮台の正面に梵字「カ」台の正面中央「奉造立地蔵尊」右脇に武州豊嶋郡上練馬内□□、左脇に念佛講中三十六人。台の右側面に紀年銘が見えるが残念ながらうまく読み取れなかった。


2番目 地蔵菩薩立像 正徳3(1713)やや小型の真ん丸なお顔の丸彫りのお地蔵様。台の正面に銘は見当たらない。


像の背中に銘があるのかもと後ろに回ってみたら、台の裏面に銘が刻まれていた。中央「大阿闍梨有俊(?)」両脇に造立年月日。どうやら高僧の供養塔のようだ。


3番目 地蔵菩薩立像。本来の台を欠く。大きな蓮台、敷茄子に台もあったら相当な高さになりそうだ。


蓮台、敷茄子に文字らしいものが見えるが白カビが多く、これも読み取れなかった。


4番目 地蔵菩薩立像 元文3(1738)四角い顔に笑ったような細長い眼。口元も個性的でどこか人間臭い。


台の正面に武州豊嶋郡 上練馬内高松村講中 二拾人。左側面に願主 個人名。右側面に造立年月日が刻まれている。


右端 地蔵菩薩立像 享和2(1802)ここでは唯一の舟形光背を持つお地蔵様。光背は一部が欠け、白カビもあちこちにこびりついていた。丸いお顔に目元、口元のあたりが生々しく、こちらもユニークな顔立ち。光背上部に梵字「カ」右脇に西心法士。その下に造立年月日。左脇に信州小市之生と刻まれている。


参道の奥には瓦屋根の立派なお堂が立っていた。虚空蔵堂というのだから、お堂の中に虚空蔵菩薩が祀られているのだろう。手前両脇に二基の笠付き角柱型の石塔が並んでいる。


左 庚申塔 享保18(1733)唐破風笠付きの石塔の正面を舟形に彫りくぼめて、日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。目を吊り上げ口をへの字にした悪相の面金剛がにらみを利かす。


足元に正面向きの邪鬼が顔をのぞかせる。岩に閉じ込められた孫悟空のようだ。その下には三者三様の座り方をした三猿が彫られていた。


塔の左側面 武州豊嶋郡上練馬之内 高松村、願主は個人名。


右側面「奉供養庚申」その下に造立年月日。さらに続けて講中十一人と刻まれている。


右 六字名号塔 寛文9(1669)相輪付きの笠を持つ。


塔の正面を凝った形に彫りくぼめて、上部に阿弥陀三尊種子。その下に「南無阿弥陀佛」両脇に造立年月日。周りに薄くたくさんの文字が見えるが人の名前だろうか?


塔の右側面中央「三界萬霊有無縁等六親眷属七世父母乃至法界」ここも周りに文字が見えるが彫りが薄く読み取れない。


左側面はなにもないように見えるが近づいてみると本当に小さい文字がびっしりと刻まれていた。一見傷のように見えたのだが、やはりこちらも人の名前と思われる。三面合わせると相当な数だ。それだけ多くの人たちがこの石塔の造立にかかわったということだろうか。