塚越神社 蕨市塚越3-2
蕨駅から東へ400mほど歩く。住宅街の中に塚越神社があった。通りを隔てた
北側の地域は川口市の芝地区になる。
赤い鳥居をいくつもくぐると急な石階段がある。その右脇に二基の石塔が並ぶ。
階段上に見えるのは塚越稲荷神社の拝殿。朝早くから多くの人が参拝していた。
左
猿田彦大神塔 文政13(1830)上部に日月雲が線刻され、その下に「猿田彦太神」
両脇に
天下泰平 國土安全と刻まれている。
下の台の正面から左側面にかけて十数名の名前が刻まれていた。
台の右側面には當所
世話人として二名、続いて大門宿の石工の名前が見られる。
塔の右側面 北
しば 十三丁 なんぶ 二里半 東 はとがや 壱里?
左側面 南
戸田 二十二丁 江戸 四里半。脇に 是より三丁裡行 左 川口道と刻む。
裏面「奉再建」とあり年号が刻まれている。下部に
西 と見えるがつつじの木が
邪魔になりその先は読めない。いずれにしても東西南北揃った立派な道標だ。
右 敷石供養塔
嘉永4(1851)正面「奉獻(献の異体字)経塚山敷石」と刻まれる。
調べてみると、昔廻国僧がここに経文を埋めた塚を築き、そのためこの地を
元々は「経塚腰村」と言っていたのが後に省略され「塚越村」という地名に
なったという。現在稲荷神社が建っている後の山が「経塚山」のようだ。
台の正面に世話人とあり、9名の名前が刻まれていた。
塔の左側面には年号。右側面「橋際ヨリ南之方」どういう意味なのだろう?
「橋の際より南に奉納した敷石を敷いた」だろうか?
塚越神社の広い境内の北西、出口付近にお地蔵様の小堂が立っていた。
地蔵菩薩立像
慶応元年(1865)頭が大きく首も太い個性的なお地蔵様だ。
台の正面から側面にかけて多くの文字が見えるが、彫りが薄くはっきりしない。
脇に立つ解説板によると、地元の蕨をはじめ戸田、浦和、川口なども含めて、
約100人ほどが力を合わせて建立したものだという。
地蔵堂の横に手水鉢がある。裏面に天保5(1834)の銘があった。結構古いものだ。
左側面
當所世話人とあり個人名が見える。右側面には9名の名前が刻まれていた。
塚越五丁目会館北東角 蕨市塚越5-28
JR京浜東北線の東側、蕨駅と西川口駅の真ん中あたりに蕨市民公園がある。
そこから南に二丁ほど歩くと塚越五丁目会館のある四つ角のところに小堂が
立っていた。写真の後に見えるのが会館。同じ敷地の中に丁張稲荷神社がある。
小堂の中
庚申塔 寛政7(1795)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。
個性的な顔立ち、三眼の青面金剛。ショケラは腰にしがみつく。
足の脇、よく見てみると二鶏が薄く線刻されていた。足元の邪鬼もユニーク。
ネコの敷物でも敷いているかのようだ。
下の台の正面に三猿。敷地の囲いと小堂の前の横棒が石塔の近くまで迫っていて
写真も撮りにくい。表面も若干の風化が見られる。
塔の左側面は風化のため文字は見えない。右側面、小堂の隙間から少しずつ覗く。
上の写真は左が塔の上部、右が下部の様子。中央「奉立達諸願成就為二世安樂也」
両脇に天下泰平
國土安全。その下に造立年月日を刻む。さらに一番下の部分、
右 芝道、左
川口道 と刻まれていた。
上の二枚の写真は正面に三猿が彫られた台の右側面の様子。空間に余裕が無く、
字を読み取るのは難しいが、願主、世話人など十数名の名前が見られる。
こちらは左側面
手前から 芝村 横曽根村 鳩ヶ谷宿 講中などの文字が見えるが
その先は隣に立つ石塔が邪魔をして確認できなかった。北の芝村、東の鳩ヶ谷
南の横曽根。肝心の塚越村がない。塔の左側面に刻まれていたのだろうか。
庚申塔の台の左側面にくっつくように立つのは
馬頭観音塔 天保7(1836)やはり
側面が確認できないため詳細はわからなかった。