大林・北越谷の石仏

 

大林香取神社 越谷市大林310西


岩槻の大野島方面から続く元荒川沿いの県道325号線は、元荒川橋交差点で国道4号線を渡り、右手に梅林公園を見てその先のT字路で旧日光街道と合流する。この交差点のあるT字路を左折して少し行くと左側に香取神社の入り口があった。砂利道の細い道を進むと石鳥居が立っていて、その先に香取神社の拝殿があった。


参道を進むと左側、植え込みの前に乱雑に石塔が並んでいる。


左から 庚申塔 享保5(1720)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。白カビが多い。


近づいてみると合掌した青面金剛は第2手右手にショケラを掲げていた。右脇「奉造立庚申供養尊」左脇には造立年月日が刻まれている。


足元は「岩槻型」らしい構成。邪鬼はM字型に腕を張って正面を向き、三猿もまた正面向き。三猿の両脇に二鶏を彫る。その下の部分に12名の名前が刻まれていた。


その隣 庚申塔天明8(1788)駒型の石塔の正面 日月雲 梵字「ウーン」の下「青面金剛」両脇に天下泰平、國土安全。その下に大きな正面向きの三猿が彫られている。


塔の右側面に造立年月日。左側面には大林村 講中と刻まれている。


続いて 庚申塔 天保10(1839)上部が完全に欠けている。正面「□申塔」


塔の右側面に造立年月日。左側面には埼玉郡大林村 講中とあり、願主 大林寺鉄宗と刻まれていた。


拝殿の右側は小高くなっていて、そこには三つの境内社が立っていた。右の祠の脇に二基の角柱型の石塔が並んでいる。


右 猿田彦大神塔 天保6(1835)塔の正面に大きく「猿田彦大神」


塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。脇に陶斎省吾拝書とある。


台の正面には18名の名前。最後に願主2名の名前が刻まれていた。


左も猿田彦大神塔 文政11(1828)塔の正面「援田毘古大神」台の正面には大林邨 講中。台の左側面に願主2名の名前が刻まれていた。


塔の左側面に武蔵國埼玉郡新方領 講中。右側面に造立年月日。その脇に武蔵國一宮神主 岩井伊豫守物部連正興謹書と刻まれている。

大林寺 越谷市大林29


県道352号線と日光街道の旧道とのT字路交差点を今度は右折して北越谷駅方面に100mほど進むと、道路右側に大林寺の入り口があった。山門に続く階段の右手に石塔が立っている。



大乗妙典供養塔 享保11(1726)塔の前面を彫りくぼめて、中央に「奉讀誦大乗妙典一千部供養塔」上部両脇に二つの名前と寛保元年(1741)、元文5(1740)の紀年銘。下部右脇に武州埼玉郡新方領大林村、左脇に享保11(1726)の紀年銘が刻まれていた。普通は戒名の脇の紀年銘が命日で、造立年月日には最後に吉祥日が付く場合が多い。この石塔の三つの紀年銘は一番古い享保の銘に吉祥日が付いている。上部両脇の銘は後刻されたものだろうか?資料では寛保元年を造立年としているが、新しい年号を造立年としたのだろう。このあたり判断が難しい。

 

県道325号線沿い元荒川土手上 越谷市北越谷5-4


県道325号線を南に進むと道は緩やかに左にカーブして東武線の高架下をくぐり、また今度は右にカーブして東武線の西側を越谷駅方面に向かうことになる。高架の手前のカーブのあたり、道路右側には蛇行する元荒川の土手が迫っているが、その土手の上に三基の石塔が並んでいた。左端の石塔は個人の墓石だった。


中央 光明真言塔 享保10(1725)駒型の石塔の正面上部に光明真言の曼陀羅が刻まれ、その下に「法□圓心不生位」両脇に造立年月日。こちらは僧侶の墓石のようだ。


右 庚申塔 寛政3(1791)角柱型の石塔の正面「青面金剛」下部に三猿を彫る。下の台は土に深く埋まっていて、文字は見えるがその全体は見えない。資料によると台の正面と左側面に合わせて20名ほどの名前が刻まれているという。


塔の右側面に造立年月日。その脇に新方領大房村。


左側面には 左 ぢおんじ 乃じま道と刻まれていた。

 

大房稲荷神社 越谷市北越谷4-12


北越谷駅西口から西へ300mほどの信号交差点を右折して少し行くと元荒川左岸の遊歩道にでる。直前の十字路を右折した先、左側に稲荷神社があった。境内の東のブロック塀の前、祠の両脇に多くの石塔が並んでいる。


祠の左側に三基の石祠。中央の山王宮は平成19年に再建されたもので、古いお宮は文政13年に建立されたという。


左 水神宮 元禄9(1696)唐破風付きの向拝を持つ入母屋造の凝った屋根。祠の中は風化が著しく文字などは確認できない。右側面「奉造立水神御社如意祈攸」左側面に造立年月日。右下に別當 千手院、左下に願主は個人名が刻まれていた。


右 弁財天 正徳4(1714)左側面に造立年月日。右側面中央に「辨財天女」下部に 別當大房村 千手院宥圓と刻まれている。


祠の右側にも多くの石塔が並んでいた。コンクリートの基礎で固められたところに六基、少し離れたその先にも石塔が見える。


左から二十一仏板碑 永禄元年(1558)上部を大きく欠く。注連縄のあたりに大きく虚空蔵菩薩を表す梵字「タラーク」その下に四列五段に渡り二十の仏様を表す梵字を彫る。二十一仏板碑は全国的に数少なく、その半数以上が埼玉県内、それも越谷市など県南東部に集中しているという。


四段目付近の梵字の間に薄く紀年銘が刻まれていた。塔の最下部にいくつか文字らしいものが見えるが、たぶんこの石塔の造立に携わった人たちの名前だろう。


その隣 猿田彦大神塔 天保15(1844)角柱型の石塔の正面「猿田彦大神」左側面「岐大神」と彫る。調べてみると岐神(くなどかみ)とは禊、魔除け、厄除け、道中安全の塞の神らしい。


右側面に造立年月日。脇に明治23年の紀年銘。再建時に追刻されたものだろうか。


その隣 庚申塔 天保12(1841)石質が悪いためか、塔の正面は崩落が激しく、像ははっきりとした形をとどめてはいない。それでも塔上部に日月雲、右上に法輪を持った手が見え、横から見ると中央の盛り上がった形は青面金剛だろうと思われる。側面も崩落が見られるが、左側面右上に天下泰(平)、左下に大房村、右側面に造立年月日を認めることができた。


塔の下部、これを邪鬼と断定するには勇気がいる。その下の台の正面に三猿。他に薄く文字らしいものも見えるが読み取りは難しい。


続いて庚申塔 元禄6(1693)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


三面六臂の青面金剛は珍しいがまれに見かけることがある。はじめこれを見たときは三面六臂で合掌する馬頭観音かと思ったが、結った髪の前面に馬頭らしい痕跡は見えず、また合掌した手の形が馬頭観音独特の馬口印ではないことから三面六臂の青面金剛と考えるのが自然だろう。白カビの中、右脇「奉造立庚申講供養現當二世安樂攸」左脇に造立年月日。その下に施主敬白。


足の両脇に片足立ちした二鶏を浮き彫り。邪鬼は正面向き、M字型に腕を張る。三猿も正面向き。その下には十数人の名前が刻まれていた。


その隣 猿田彦大神塔 文政8(1825)角柱型の石塔の正面「猿田彦大神」塔の右側面に造立年月日。左側面に「天下泰平 村内安全」下の台の正面に数名の名前が刻まれている。


右端 樗宮文字塔 嘉永6(1853)駒型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「樗宮」鳥取市にある樗谿神社のことだという。塔の右側面は無銘。左側面に造立年月日。


六基と少し離れてブロック塀の角のあたりに二基の石塔が寄り添うように立っていた。右は不明塔。左は猿田彦大神塔 天保15(1844)角柱型の石塔の正面「援田彦大神」左側面に「岐大神」右側面は隣の石塔と密着していて見ることはできないが造立年月日が刻まれているという。

 

弘福院 越谷市北越谷1-21


北越谷駅西口から東武線沿いの道を南へ500mほど歩くと弘福院の山門の前に出る。山門の正面に本堂。その左脇、槙の木の脇に宝篋印塔が立っていた。


宝篋印塔 延享5(1748)屋根式の笠を持つ。塔身部四面にそれぞれ梵字が彫られていた。台は三段。最下部の基壇は新しい。


基礎部正面中央「奉誦法華蓮経五萬部」両脇に供養施主は個人名。左側面から裏面にかけて願文。右側面には「天下泰平 國土安全」続いて造立年月日が刻まれていた。願文の中に「宝篋印陀羅尼経」などの銘はなく、宝篋印塔形式の法華経供養塔というべきかもしれない。


三段の台の一番下の台の三面に法華千部 法印迎源、同七百部 純源居士から始まり、納経部数と納経者名が60ほど刻まれている。60数人合わせて5万部の法華経を奉納したということだろう。


山門を入りすぐ左に進むと塀の前にたくさんの石仏が並んでいた。中央の大きな石地蔵は最近のもので、その左に並ぶ丸彫りの六地蔵は銘が無く造立年など詳細はわからない。


石地蔵の右側に四基の石塔。左から光明真言供養塔 正徳2(1712)駒型の石塔の正面中央、円の中に梵字で光明真言を表す曼陀羅を彫り、その下中央「唱誦二百万遍供養」両脇に乃至法界 平等普利。さらにその外に造立年月日。下部に大沢町 願主 浄仙と刻まれていた。


その隣 庚申塔 享保6(1721)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


上部に梵字「ウーン」中央でつながった瑞雲の上に日月。三眼の青面金剛。後ろの二組の腕は肩のあたりから真横に伸びる。足の両脇にはくっきりと二鶏が線刻されていた。


邪鬼は青面金剛の足元の岩のの下から顔を出す。この構図は初見。その下に丸みを帯びた三猿。左右の猿が内側を向いて座る。


塔の左側面に造立年月日。右側面には「奉造立庚申像為二世安樂」と刻まれていた。


続いて庚申塔 宝永6(1709)駒型の石塔の正面、上部に銘を刻み、下部に大きめな三猿を彫る。


正面中央、梵字「ウーン」の下「奉造立庚申講二世安樂所」上部両脇に造立年月日。中ほどの右脇に大沢町、左脇に個人名。さらにその下に数人の名前が薄く刻まれている。


右端 馬頭観音立像?宝永3(1706)?舟形の石塔の正面に三面六臂の合掌した立像。資料には馬頭観音像となっているが・・・


頭上に馬の頭は見当たらない。さらに合掌した手は平らに合わさっていて、人差し指をまげて合掌する馬口印ではない。本当に馬頭観音なのだろうか?


右側面の銘は紀年銘と思われるが文字が非常に読みにくい。宝永三□□天六・・・くらいに見える。


こちら左側面、二月吉日 作兵衛だろうか?こちらもはっきりしない。