恩間新田公民館 越谷市恩間新田309隣
恩間新田はせんげん台駅から北西、新方川を越えた先になる。元の恩間村の一部が千間台西という住居表示になったため今はだいぶ離れてしまったが、新田開発当時は地続きだったのだろう。獨協埼玉高校入口の前を通る道を春日部方面に進むと左側に恩間新田公民館があった。道路沿い、祠の周りに石仏が並んでいる。
右から 庚申塔 享保8(1723)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足を折り曲げたショケラ。足の両脇の二鶏は比較的大きい。土下座する邪鬼の下に、これも比較的大きな三猿が彫られていた。
塔の右側面「奉造立青面金剛」左側面に造立年月日。その下に恩間村新田 施主村中と刻まれている。
その隣 庚申塔 嘉永3(1850)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」
下の台の正面に三猿。その両側面にそれぞれ十数名の名前が刻まれていた。
塔の右側面「天下泰平 五穀成就」その脇に造立年月日。左側面には武州埼玉郡岩槻領 恩間新田。恩間新田のすぐ北は春日部市、西に行くと現在の岩槻区大口になる。当時恩間村は岩槻領だったようだ。
続く二基の石仏は真新しい。地蔵菩薩立像 平成10(1998)隣の庚申とともに、恩間新田納税組合が建立したもの。
庚申塔 日月雲 青面金剛立像 鈴・数珠?持ち六臂。加藤氏の資料に載っていた元禄10(1697)の庚申塔を再現したものと思われる。資料の図を見ると風化が進み破損した元の庚申塔とほとんど同じデザインになっている。青面金剛の左手あたりは図ではもっとも損傷が著しい部分で、ショケラを持つのが普通だが、ここでは数珠になっていた。
祠の中 不動明王坐像 明治4(1871)越谷に入ってこれまで、いろいろな地域でこのタイプの不動三尊像を頻繁に見てきた。江戸古代末期から明治にかけて不動信仰が盛んだったということだろう。
祠の左、卵塔の隣に普門品供養塔 天明3(1783)角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下「奉讀誦普門品供養一万・」両脇に造立年月日。
塔の右側面 じおんじみち、左側面には のじま?みちと刻まれている。
あゆみ幼稚園北路傍 越谷市恩間新田70付近
恩間新田公民館の北、少し先を斜め左に入ってゆくと右手路傍に大きな角柱型の石塔が立っていた。
出羽三山供養塔 嘉永2(1849)正面上部に日月雲。梵字「アーンク」に続き「月山 湯殿山 羽黒山 三社大権現」台の正面には七名の名前。増田新田、恩間邑などの村名も見える。
塔の右側面「天下泰平 五穀成就」その下に造立年月日。
塔の左側面 武州埼玉郡 恩間新田講中。台の左側面には小さく三名の名前が刻まれていた。
獨協埼玉高校南 新方川左岸路傍 越谷市三野宮1971
新方川は春日部市の豊春地域を源流とし、岩槻区大戸、春日部市増田新田、越谷市恩間新田あたりを通り、獨協埼玉高校の南で東に向きを変える。ちょうど流れが東に向きを変えるあたり、その左岸路傍に石塔が並んでいた。
左 道標 嘉永5(1852)石塔上部は白カビが多い。右から 東 かすかべ 一リ半、西 のしま 廿丁、西 じおんじ 二リ、真っ白な中にかろうじて読める。その下は歌が刻まれているようだが、彫りが薄くなっていてはっきりしない。
塔の右側面に造立年月日。左側面 上部に北の道、その下に四名の名前が刻まれていた。
その隣 庚申塔 元文4((1739)駒型の石塔の正面 日月雲 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。頭上に蛇の頭が見える。こちらは下部に白カビが多い。
足の両脇に二鶏。足元に正面向き両腕を張る邪鬼。その下に三猿が彫られていた。
塔の右側面「奉建立庚申為二世安樂也」その下に五名の名前。
左側面上部に造立年月日。脇には三野宮村。その下にこちらも五名の名前が刻まれている。
三番目 地蔵菩薩立像 文化13(1816)風化が著しく全面崩落寸前といった感じだ。上部に錫杖と宝珠を持つ地蔵菩薩立像を浮き彫り。下部は中央が剥落、全体に判断ができない。
塔の右側面。右脇に寛保4(1744)の記年銘。左脇に文化13年再建。現在の石塔は文化13年建立ということになるだろう。その下に世話人とありさらにその下に3名の名前。
左側面には三段に渡って13名の名前が刻まれていた。この角度からは地蔵像は白骨化した躯のように見える。
その奥に石橋供養塔 明和3(1766)角柱型の石塔の正面 上部に合掌型の地蔵菩薩坐像を浮き彫り。その下中央に「石橋造立供養塔」右脇に三野宮村々中、左脇に並當橋組中。
塔の左側面に造立年月日。右側面「右・・・・二世安樂也」ちょっと読みにくく、いずれまた後日確認してみたい。
最後は丸彫りの地蔵菩薩立像。銘などが見当たらず詳細は不明。顔の表情が人間臭く独特の味があって面白いが、首にセメントのあとがあり、後から補修されたものなのかもしれない。
一条院 越谷市三野宮618
元荒川左岸を走る県道325号線、三野宮橋の交差点から越谷方面に300mほど進むと左側に一条院の入り口があった。参道の先に大きな屋根の本堂が見える。入り口右側に重厚なたたずまいの寺標。その後ろに祠が立っていた。
祠の中 不動明王坐像 文久元年(1861)矜迦羅童子と制叱迦童子を従えた三尊形式。二童子の真ん中に「成田山」と刻まれている。
参道の左側に多くの石塔が並んでいた。手前に埼玉県巡査の大きな墓碑が立ち、一部の石塔はその陰になって写真も撮りにくい。
左から 庚申塔 安永2(1773)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。蛇を頭にいただき、青面金剛は厳しい顔でにらむ。塔全体に風化も少なくバランスが取れた構図。二鶏も細かく彫られ、邪鬼・三猿ともに存在感がある。
塔の左側面に造立年月日。続いて三野宮村 講中とあり、ひらがな二文字の名前が十数個、どうやら女人講中のようだ。右側面「奉造立大青面金剛尊像一躯天下泰平」脇に「風雨順時庚申講中村内安穏如意圓滿也」と刻まれていた。
個人の墓石を挟んで3番目には出羽三山供養塔 嘉永4(1851)石祠の正面に「月山 湯殿山 羽黒山」左側面に造立年月日。右側面には天下泰平 國土安全 五穀成就と刻まれている。
続いて4番目は大乗妙典供養塔 元文2(1737)隅丸角柱型の石塔の正面 二重に彫りくぼめた中、梵字「サ」の下に「奉納大乗妙典日本回國六十六部供養」上部両脇に天下和順・日月清明。中ほど両脇に渡って造立年月日。
下の台の正面 右から大戸村、須加村、大森村など八つの村な名前が刻まれているが、三ノ宮村以外は現在の岩槻区の村名である。中央に「宿」とありその下に個人名。この「宿」がどこを表すのかよくわからない。
5番目 庚申塔 文化4(1807)唐破風笠付角柱型石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足元の邪鬼はあおむけになって腹部のあたりを踏まれていた。塔の両側面に造立年月日が刻まれている。。
下の台の正面に烏帽子をかぶりハッピ姿の三猿。台の両側面に多くの名前が見えるが、いずれも例えば金子内はつ、坂巻内そめというような表現で、「内」=内儀だろうからこの庚申塔も建立の主体は女人講中のようだ。
続いて6番目 庚申塔 安政2(1855)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」石塔全体を白カビが覆いつくしている。塔の左側面に造立年月日。その下には三ノ宮村 講中。右側面には天下泰平國土安穏 風雨順時五穀豊穣。
下の台は二段になっていて、上の段の正面には岩槻でよく目にした自由な三猿が彫られていた。
下の段の正面 右端に女人講中とあり、多くのかな二文字の名前が刻まれている。
7番目 庚申塔 天保4(1833)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」塔の右側面に造立年月日。左側面 三ノ宮村 講中。
下の台の正面 こちらも岩槻系の三猿。台の両側面に「坂巻内きよ」から始まって「小嶋内まつ」まで二十数名の名前が刻まれていた。ここまで四基の庚申塔はいずれも女人講中のものとおもわれるが、これだけまとまっているのは初めてではないだろうか。
8番目 普門品供養塔 文政8(1825)角柱型の石塔の正面 梵字「キャ」の下に「普門品十万巻供養塔」両脇に天下泰平・國土安全。塔の右側面に造立年月日。左側面には歌が刻まれているようだが、これはうまく読めなかった。
台の正面と両側面に合わせて30名ほどの名前が刻まれている。
右端 庚申塔 享保16(1850)駒型の石塔の正面を彫りくぼめた中に 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。
頭頂部を平らに結い上げた独特のヘアスタイル。不自然なほど直角に曲がった第2手、第3手。典型的な「川口型」庚申塔である。窓の右枠「奉造立大青面金剛」左枠に造立年月日。その下に三野宮村中と刻まれていた。
猫がうずくまるような姿勢、頭が左で顔だけ正面を向く邪鬼。三猿は真ん中の聞か猿が正面向き。両脇の二猿は中を向き足を投げ出す。これも「川口型」の特徴だ。岩槻区南平野の西福寺でも「川口型」庚申塔を見かけた。南平野と三野宮。ともに元荒川の左岸になる。なにか関連があるのだろうか?いろいろと興味は尽きない。
前回見ていただいた石仏群の右端、参道向きではなく、本堂のほうを向いて三基の石塔が立っていた。上の写真後ろに見えているのが前回の記事の石仏群になる。
左 弘法大師供養塔 天保5(1834)角柱型の石塔の正面に「弘法大師一千年御忌供養塔」左側面に「天下泰平 五穀成就」
塔の右側面には梵字が五文字。大日如来の真言「ア・ビ・ラ・ウン・ケン」裏面には造立年月日が刻まれていた。
中央 光明真言供養塔 天保10(1839)唐破風笠付角柱型石塔の正面 上部を舟形の光背の形に彫りくぼめて、左右に胎蔵界大日如来と金剛界大日如来の坐像を浮き彫り。中央「光明真言百万遍供養塔」その両脇には梵字が刻まれている。
塔の左側面には歌が刻まれ、右側面に造立年月日。さらに三ノ宮村とあり続いて「天長地久蒼生安号 五風十雨穀米豊登」あまり見たことのない願文である。
台の正面中央に講中。その下には多くの名前が刻まれているが、右から8名は漢字、続く10名はかなで二文字、さらに左側面にもかな二文字でいくつかの名前が刻まれていた。
右 地蔵菩薩立像 宝永4(1707)丸彫りの重量感のある立像だが、蓮台の下の台が本来のものではないのか、銘は見られず詳細は分からない。錫杖の先と宝珠は失われていた。
背面中央に造立年月日が刻まれている。彫りは薄くなっているが、たぶん宝永4年でまちがいはないと思う。
本堂の手前左が墓地になる。その入り口に五基の石塔が並んでいた。
右 宝篋印塔。紀年銘は見当たらない。隅飾型の笠を持ち江戸時代初期のものと思われる。塔身部4面にそれぞれ梵字を刻む。
基礎部に「宝筐印陀羅尼経曰」で始まる願文が刻まれているが、右側面から始まり正面、左側面を飛ばして裏面に続くという構成になっていた。返花座の下の台の正面に法印賢譽の文字が見える。
台の右側面に武州稲荷山(一条院の山号)の銘。左側面、一部は土の下だが、右端に願主とあり、続いて4名の名前。さらに「七代」「六親」「乃至(法界)」「平等(利益)」「敬白」などと刻まれていた。
その隣 馬頭観音坐像 享保15(1730)駒型の石塔の正面を深く彫りくぼめた中に梵字「カン」その下に六臂の馬頭観音坐像を浮き彫り。
顔がつぶされているのは残念だが、彫りは立体的で美しい。はっきりと馬口印を結ぶ。右の縁に「奉造立馬頭觀世音像位置躯日参三百箇日供養成就處」左の縁に造立年月日。その下に 本願主 善覺と刻まれている。
下の台の三面には多くの村の名前が刻まれていた。左側面 上間久里村から始まって11の村、正面は中央に「日参往来施主村名」とあり、それを挟むように15の村名。中央付近に三ノ宮村と見えるが、あとは大野嶋、増長村、慈恩寺、平野村など岩槻の村名が多い。さらに右側面に大枝村、袋山村など8つの村名、その奥に
以上三十四箇郷と刻まれていた。越谷、岩槻、春日部にまたがって34ヶ村!本当に広い地域の人たちがこの馬頭観音の建立に協力したことがわかる。
3番目 地蔵菩薩立像 天保15(1844)丸彫りの大きな石地蔵。穏やかな微笑みを浮かべている。
塔部正面には「経曰」で始まる願文。右側面に造立年月日。左側面に當院廿五世 法印快舜代、さらに葉山氏、向笠氏、と刻まれていた。
続いて 六面地蔵塔。笠付きの六面石幢の各面に地蔵菩薩立像を浮き彫り。こちらは銘が全く見当たらず詳細は不明。
左端 五輪塔 安永3(1774)塔身部(水輪)の四方に梵字を彫り、基礎(地輪)正面 梵字「ア」の下に法印宥圓。住職の墓石のようだ。裏面に造立年月日が刻まれていた。
県立大学南路傍 越谷市三野宮447向
埼玉県立大学の東南の角の信号交差点から西に進んですぐ、道路左を流れる用水路を越えた先の住宅の前に三基の石塔が並んでいた。
左 石橋供養塔 上部の隅が丸い角柱型の石塔の正面、梵字「カ」の下、蓮台に座す合掌型の地蔵菩薩像を浮き彫り。下部中央「奉供養石橋講中」両脇に造立年月日。右下に三ノ宮村 施主 平八。左下に橋組二十一人、十六人と刻まれている。
中央 猿田彦大神塔 天保10(1839)角柱型の石塔の正面 「猿田彦大神」両脇に天下泰平・國土安穏。塔の右側面に造立年月日。左側面には三ノ宮村講中と刻まれていた。
下の台の正面に十数名の名前。左側面にも十数名の名前が見えるが、右側面にはなぜか文字が見当たらない。
右 庚申塔 天保10(1839)目の前に小型の墓石が立っていて正面は下半分が隠れていた。角柱型の石塔の正面「庚申待十八度供養塔」
塔の右側面に造立年月日が刻まれている。
三野宮香取神社西畑前 越谷市三野宮246
一条院から県道325号線を西に少し進むと右に入ってゆく細い道がある。県道とほぼ平行に走るこの道はたぶん古道だろう、その先の右手には香取神社があり、やがて岩槻の大森方面に抜けてゆく。香取神社の西、右手の畑の中に三基の石塔が並んでいた。
右 地蔵菩薩立像 享保7(1722)舟形の光背、像の一部に風化が見られる。光背右脇「奉供養大乗妙典六十六部回國所願成就處」光背左脇上部に三つの戒名。中ほどに紀年銘が見える。その下には本願主 徹□敬白と刻まれていた。
中央 庚申塔 寛政11(1799)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。下の台の正面に三猿が頭だけをのぞかせている。
岩槻でもたびたび出会った寛政期以降に特徴的な青面金剛像。独特な模様の衣装で、その右すそが巻き上がる形。足元に二匹の邪鬼を踏み、さらにその下両脇に二鶏。
塔の右側面に造立年月日。左側面に三ノ宮村講中。こうやって斜め横から見ると彫りの厚みがわかる。
左 庚申塔 宝暦7(1757)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。頭上に蛇をいただいた青面金剛。足元には頭を右に邪鬼。その下に三猿が彫られていた。
塔の右側面に造立年。その下に三之宮。左側面には施主高砂組と刻まれている。正面から見ると邪鬼の顔が不気味だ。
三野宮香取神社西小堂 越谷市三野宮248
古道をさらに西に歩くと、すぐ近く、右手の住宅の入り口に小堂が立っていた。三基の石仏と30mと離れていない。
右 馬頭観音菩薩立像 明和3(1766)駒型の石塔の正面に六臂の馬頭観音像。石塔全体に風化が進み一部文字が読みにくい。塔の上部 像の両脇に造立年月日。
塔の下部右側に 施主 三ノ宮村。左側に個人名が刻まれている。
加藤氏の資料ではこれを庚申塔としている。基礎資料の『越谷市金石資料集』もこれを庚申塔134番として掲載しているようだ。しかし、頭上に見えるのは馬の頭らしく思われ、足元に邪鬼も三猿も見えない上に、「庚申」などの銘も見当たらないところから、「馬頭観音」と考えたほうがしっくりくるように思うのだがどうだろうか?
左 聖観音菩薩立像 元文5(1740)この石塔もかなり風化が進んでいて、像は丸みを帯び、文字もはっきりしない部分がある。駒型の石塔の正面 聖観音菩薩像の左脇に造立年月日。右脇には いわつき道とあるというのだが、これは読み取ることができなかった。
塔の左側面 ぢおんじ道。右側面は読みにくいが こしがや道と思われる。村の道端に立ち、道標の役割を果たしていたのだろう。