西円寺 越谷市花田1-22
北越谷駅の東口から広い道路をまっすぐに東に向かう。県道115号線との交差点で右折して、またすぐ先の道を左に入ると道路左側に西円寺があった。入り口近く、右側に稲荷神社。門柱の間から石塔が見える。
猿田彦大神塔 安政5(1858)大きな自然石の正面に「猿田彦大神」両脇に天下泰平 風雨順時。
裏面中央に造立年月日。下のほうに40名ほどの名前が刻まれているが、ブロック塀との隙間が狭く写真には収まらなかった。
入口から本堂奥まで、西側一帯が墓地になる。入り口近くお堂が立っていて、その周りにいくつか石塔が並んでいた。
お堂の左側、中央に大型の笠付き角柱型の石塔。両脇に六地蔵菩薩立像。左端は首のもげた丸彫りの地蔵菩薩像。六地蔵の右のほうにも同じような石塔が一列に並ぶ。
舟形光背型の六地蔵菩薩立像 宝暦7(1757)光背の左脇に造立年月日。六体とも同じ銘を持つ。
中央 大随求陀羅尼塔 明和元年(1764)初見である。塔の四面にびっしりと梵字で大随求陀羅尼の呪文が刻まれていた。
塔の正面下部に6名の戒名。台の正面に造立年月日が刻まれている。
六地蔵の右には三基の十九夜念仏塔が続く。1番目 十九夜念仏塔 文政元年(1818)月待塔の中でも十九夜講はそのほとんどが女人講、念仏講で如意輪観音を主尊とするものが多いということだが、この石塔の上部に浮き彫りされた坐像は、摩耗が進みはっきりしないが如意輪観音ではないようだ。像の下「十九夜念佛供養」右脇に造立年月日。左脇に女人講中と刻まれていた。
その奥 十九夜念仏塔 宝永7(1710)風化が進み文字は読みにくい。舟形光背に二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。顔の右脇に「拾九夜念佛」左脇に造立年月日。台の正面右から供養講中二世安樂攸と刻まれている。
その隣 十九夜念仏塔 明和5(1768)これも風化が進んでいる。舟形光背に二臂の如意輪観音坐像。顔の左脇に造立年月日が刻まれていた。
参道左側のお堂に向き合うように四基の石塔が立っていた。
右には一基だけ離れて、二段の台を持つ庚申塔 文久3(1863)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」塔の右側面に造立年月日。
二段の台の上のほうの台の正面に三猿。下の台の正面に「女講中」
三猿の彫られた上の台の左側面には世話人とあり7名の名前。下の台の左側面にはひらがなで女講中28名の名前が刻まれている。
続いて同じようなサイズの石塔が三基並ぶ。右 庚申塔 文政7(1824)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申」塔の両側面に造立年月日が刻まれていた。
中央の石塔。前面は風化が著しく、また側面は隙間がなく銘が確認できない。前面上部に合掌型の一仏が浮き彫りされているが詳細は不明。
左 十九夜念仏塔 万延2(1861)駒型の石塔の正面上部に如意輪観音坐像を浮き彫り。その下に「十九夜念佛供養」両脇に造立年月日が刻まれている。
お堂の右脇、墓地の前に石塔が並んでいた。右の駒型の石塔は全体に剥落が見られ、詳細はわからない。左の二基の石塔は個人の墓石だった。
雨除けの下、阿弥陀如来立像 寛文6(1666)大きな舟形の光背の最上部に阿弥陀三尊を梵字で表し、その下に円形の頭光背を負った美しい阿弥陀如来像を浮き彫り。
彫りは細かく丁寧で文字もよく残っている。光背左脇に造立年月日、その下に花田邑結衆中 敬白。右脇に「奉造立阿弥陀如来念佛講中人數四十人二世安樂処」念仏供養塔ということになるだろう。
本堂の左側の墓地の入り口付近にも四基の庚申塔が並んでいた。写真で見るように隙間なく立っているために、塔の側面の銘が全く見えないものもある。
左 庚申塔 寛政12(1800)駒型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」上部両脇に造立年月日。下部両脇に女人講中 拾七人と刻まれていた。
2番目 庚申塔 天保14(1843)駒型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」両脇に天下泰平・五穀成就。確認はできないが塔の左側面に造立年月日が刻まれているという。
3番目 庚申塔 安永7(1778)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「庚申供養塔」上部両脇に造立年月日。下部に越谷領華田邑 講中廿一人と刻まれている。
右端 庚申塔 寛延3(1750)上隅の丸い角柱型の石塔の正面中央に合掌した地蔵菩薩立像を浮き彫り。その下に「庚申供養」上部右脇に 右 江戸道、左脇に 左 庄内道。下部右脇に造立年月日、左脇に講中二十人 花田村と刻まれていた。
宮野橋西墓地 越谷市花田2-19
定使野橋から県道19号線を離れ、新方川右岸の土手に沿って増森方面へまっすぐに向かう道がある。定使野橋の次の宮野橋を越えてすぐ、道路右側に墓地があった。入り口の左側の植え込みの中に二基の石塔が並んでいる。
右 三界万霊塔 寛延4(1751)駒型の石塔の正面上部に地蔵菩薩坐像?を浮き彫り。路傍にあったためだろう、塔全体に白カビが多い。
その下、中央に「三界萬霊有縁無縁等」右脇に 右 こしがや道。続いて小さな字で 願主増林村□譽放山慈光尼。左脇に造立年月日。さらに 左 さしま道と刻まれていた。
塔の左側面に のだほうし花 道、右側面は植え込みの植木がかぶさっていていたが、覗いてみると ふとう道と刻まれていた。宝珠花(ほうしゅばな)千葉県野田市と埼玉県春日部市にまたがる地名、「不動」は大相模不動尊、大聖寺を指すものと思われる。
左 庚申塔 安永4(1775)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。これも白カビが多く顔のあたりはあまりはっきりしない。
足の両脇に二鶏。邪鬼は正座して背中を踏まれ、頭をもたげて正面を向く。その下には体育座りの三猿が彫られている。
塔の左側面に造立年月日。その下に定使野村 講中。右側面には「奉建立庚申供養」と刻まれていた。
墓地に入ってすぐ左側に向かうとブロック塀の前に六地蔵の小堂が立っている。
六地蔵の左脇 馬頭観音塔 嘉永6(1853)駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」右脇に造立年月日。左下に小さく定使野と刻まれていた。
六地蔵菩薩立像 享保5(1720)丸彫りだが欠損は見当たらない。蓮台、敷茄子、台の銘の様子はよく揃っている。
六基の台にはぞれぞれの地蔵名と多くの戒名などが見える。右端の台の正面 右脇に造立年月日。左脇には男女同行五十八人と刻まれていた。
六地蔵の奥 普門品供養塔 天明9(1789)角柱型の石塔の上に蓮台を載せ、舟形の光背の前に聖観音菩薩坐像を浮き彫り。こちらも保存状態がよく美しい。
石塔の正面中央「奉讀誦普門品二万巻供養」上部両脇に造立年月日。下部両脇に増林定使野 講中二十人。塔の左側面中央「外 二万巻供養」両脇に文化6(1809)の紀年銘。後刻されたものだろうか?
花田小学校東路傍 越谷市花田4-19
土手下の道をさらに南へ向かう。宮野橋次の鷹匠橋のすぐ手前を右に入ると住宅街の角の所に四基の石塔が並んでいた。
右 庚申塔 安永3(1774)駒型の石塔の正面上部に左右がつながった瑞雲に日月。その下に青面金剛立像 合掌型六臂。それなりに風化が進み、首のあたりには断裂跡が見える。足元は狭く見にくいが、二鶏、邪鬼、三猿がそろっている。塔の右側面に造立年月日。左側面は一部は剥落が見られるが大きな字で「講中十八人」と刻まれていた。
その隣 大きな丸彫りの地蔵菩薩立像 承応4(1655)面長なお地蔵さまは静かに合掌しながら蓮台の上に立っている。台の正面、蓮の花の間に「為源海菩提也」像の裏に造立年月日。続いてこちらにも「為源海三十三年菩提也」と刻まれていた。
台の左側面は無銘。右側面には武州葛西□ 東葛西之□ 上ノ割下小□ 正徳寺 施主□台が土に深く埋まっていて下の文字は読めない。この銘から考えると葛西方面から川を使って運ばれたものかもしれない。
続いて庚申塔 正徳5(1715)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。像の右脇「奉剋彫青面金剛聖容庚申講人數二世安樂攸」左脇に造立年月日。その下に施主十三人。
青面金剛の足の脇 鶏は珍しく一羽だけ小さく線刻。邪鬼は正面向き、大きな頭と腕のみ。三猿は正面向きダイヤ型。三猿の下、きょうげんと読み「謹言」という意味らしい。
左 馬頭観音塔 文化3(1806)駒型の石塔の正面「馬頭觀世音菩薩」上部両脇に造立年月日。
下のほうには横に講中とあり、その下に11名の名前が刻まれていた。
東福寺 越谷市東越谷1-12
越谷駅東口から大きな道路を東へ進む。市役所の前を通り、新平和橋で元荒川を越えた先の初めての信号交差点を左折すると、右手に東福寺があった。駐車場横の入り口から階段を登り、参道は仁王門をくぐってまっすぐ本堂へと続いている。階段上、仁王門の手前右側に六地蔵の小堂が立っていた。
六地蔵菩薩立像 正徳4(1714)何度か訪ねたが、つもきれいにお手入れがされていてお花が供えられている。お地蔵さまは赤い帽子をかぶりベストを着こんで温かそうにしていた。それも行くたびに新調されていて、よっぽど大事にされているのだろう。左から三番目の黄色いベストのお地蔵さまの首にはアンパンマンの人形がかけられていた。
4月に訪問した際、たまたま右端のお地蔵さまだけベストを着ていなかったので、ありのままの姿を拝見することができた。かすかに微笑み静かに合掌して蓮台の上に立つお姿は、丸みを帯びた体形も相まって暖かな雰囲気が感じられる。丸彫りでありながらほとんど風化もなくカビなども見当たらないのは時代を考えると美しすぎるかもしれない。もしかすると像は後から再建された可能性も考えられる。
それぞれの台には多くの人の名前が見える。左から3番目の台の正面、右のほうに造立年月日が刻まれていた。
六地蔵の小堂の向かい側、墓地の南側の一角に無縁仏が集められている。それを見守るかのように三体のお地蔵さまが立っていた。
左手前 地蔵菩薩立像 宝暦5(1755)錫杖と宝珠を持つ丸彫りのお地蔵様。顔が個性的で妙に人間臭い。
塔の正面中央「三界萬霊」左に法師、信女の戒名。右に見える願主は僧侶のようだ。右側面中央に「奉供養大乗妙典六十六部」両脇に日本回國現當二世安樂祈所。さらに天下泰平 國土安穏 五穀成就 万民豊楽。三界万霊塔であり、また回国供養塔でもあるということになるだろう。
裏面に造立年月日。続けて武州崎玉郡新方領小林村と刻まれている。
手前右 地蔵菩薩立像 寛文9(1669)舟形光背に端正な顔立ちの延命地蔵を浮き彫り。銘は薄くなっていて読みにくい。光背左脇に造立年月日。右脇上部「奉造立地蔵菩薩□念佛講人数・・・・」左下にも文字が見えるが「敬白」のあとはうまく読み取れなかった。
中央奥に丸彫りの地蔵菩薩立像。遠目にもなかなかの存在感だ。塔部裏面に「奉納大乗妙典六十六部」とあるが、その他の面が確認できず造立年などはわからない。
仁王門をくぐり本堂に向かう参道の右側には立派な薬師堂がある。その先の小堂の両脇に大きな宝篋印塔とお地蔵さまが立っていた。
宝篋印塔 文化12(1815)大きな基壇の上に二段の台を持つ。
塔身部四面にそれぞれ梵字を彫る。基礎部正面に「法華経千部 普門品萬巻 供養塔」右側面に四つの法印名。続いて造立年月日。左端に發願現住 法印榮倫。右側面から裏面にかけて宝筐印陀羅尼経の一部が刻まれている。
左側面、上の台には大きな字で普門品講中とあり続けて22名の名前。下の台には大沢町 石工名が刻まれている。
右側面 上の台には18名の名前が、下の台にもまた多くの名前が刻まれていた。
本堂近くに地蔵菩薩立像 享保12(1727)石地蔵だが鉄製の錫杖を持つ。塔部正面に梵字「ア」右側面に称譽浄念大徳。大徳=だいとこ は徳の高い僧。この石地蔵の願主だろう。
左側面に「三界萬霊」裏面には造立年月日が刻まれていた。
参道の左、西側一帯は広い墓地になっていて、比較的新しいお墓も多いようだ。参道の右側、薬師堂の脇から入る東側の墓地は古くからある墓地らしく、入り口付近に歴代住職の墓地がある。石塔が整然と並ぶ中、舟形の光背を持つ二基の石仏が北向きに立っていた。
左 聖観音菩薩立像 延宝元年(1673)光背右上に「念佛講中」左上に造立年月日。下部両脇に二十数名の名前。足元には新方之内 小林村と刻まれている。
右 十九夜念仏塔 享保7(1722)光背中央に二臂の如意輪観音坐像。像の真上に「奉造立」右脇に十九日女念佛講中 施主五拾人、左脇に造立年月日が刻まれていた。
墓地の北東、ちょうど薬師堂の裏あたりに個人の立派な墓地が集まっていて、三つの家の墓地に講中による石仏が祀られている。
東向きに 庚申塔 享保5(1720)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。白カビがこびりつき、顔はつぶされている。光背右脇「奉供養庚申講人数八十五人現當二世諸願成就所」左脇に造立年月日。続いて武州新方領小林村人数敬白と刻まれていた。
足元には首を傾け踏みつぶされた邪鬼。その両脇に二鶏。その下の三猿は中央の聞か猿が正面向きで左右の見猿・言わ猿が内を向く。
庚申塔の向かいの墓地の中、北向きに五基の舟形光背を持つ地蔵菩薩立像が並んでいた。
右端 地蔵菩薩立像。白カビの中、静かに目を閉じたお地蔵さまは両手に薬壺?を持って佇んでいる。紀年銘が見当たらず造立年不明。光背の右上に梵字「カ」その下に「右建立之志者為男念佛講中二安禾也」その横に施主都合五十一人。光背左「右建立之志者為地蔵講中世大願成就也」その横に施主都合十九人。二つの講中が協力して造立したものらしい。
左端 地蔵菩薩立像 享保3(1718)錫杖と宝珠を持つ。光背右上に梵字「カ」その下に「右建立意趣者為□中女人念佛講中二世大願成就也」光背左脇に造立年月日。その下に施主 村□□□之女人と刻まれていた。
一番奥まったところにある個人の墓地に多くの古い石仏が祀られていて、その中にも講中仏があった。
北向きに 大日如来坐像 宝永8(1711)舟形光背、梵字「アーンク」の下に胎蔵界大日如来坐像を浮き彫り。顔の右脇「奉造立供養大日如来」続けてその脇に「光明真言一百万遍二世大願成就」顔の左脇に造立年月日。続けてその脇に光明真言結衆中敬白。
西向きに 大日如来坐像 正徳3(1713)舟形光背、梵字「バーンク」の下に智拳印を結ぶ金剛界大日如来坐像を浮き彫り。この二つの大日如来像は対として考えてもよいだろう。光背右脇「奉造立供養大日如来光明真言一百万遍□二世大願成就」左脇に造立年月日。その下に光明真言結衆中敬白と刻まれている。
その左 如意輪観音坐像 天明4(1784)舟形光背に二臂の如意輪観音菩薩。光背右脇に「念佛講中」左脇には造立年月日が刻まれていた。
香取神社 越谷市東越谷1-15
東福寺の二町北、南面して香取神社の入り口があった。階段の上の石鳥居の先、参道左脇に石塔が立っている。
庚申塔 文化11(1814)大きな角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申」台の正面に三猿を彫る。
塔の左側面 越ケ谷 岩つき 道。右側面に造立年月日。脇に吉川 ふどう道。江戸時代後期らしく道標になっていた。
東福寺東路傍 越谷市東越谷1-3-4
東越谷からまっすぐ東に向かう道沿い、東福寺へ入る信号交差点の100m先の左側歩道の所に小堂が立っている。
小堂の中 庚申塔 天明4(1784)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。塔の側面に銘があるが空間に余裕がなく写真は撮れなかった。資料によると左側面に造立年月日、右側面に天下泰平 國土安全と刻まれているらしい。
発達した瑞雲は中央でつながる形。青面金剛の顔はつぶされていて様子がわからない。
足元をのぞくと邪鬼と三猿が彫られていた。さらにその下部に20人ほどの名前が刻まれているというが、小堂内は隙間が狭く確認はできなかった。