蒲生 日光街道東地域の石仏

 

地蔵院向久伊豆神社 越谷市蒲生1-1


蒲生本町交差点の50mほど南。道路東側に久伊豆神社がある。地蔵院の筋向いになる。鳥居の向こう、拝殿の左側にポツンと石塔が立っていた。


庚申塔 文政7(1824)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」台は土に深く埋まり、その正面に三猿の頭だけが見えている。塔の右側面に造立年月日。左側面には願主二名の名前が刻まれていた。

天神社 越谷市蒲生本町13


県道49号線の蒲生本町交差点の100mほど北から細い道を東に向かうとT字路にぶつかる。ここの角には蒲生本町自治会館、その裏に天神社があった。石の鳥居の手前に庚申塔が立っている。


庚申塔 寛政12(1800)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。白カビがこびりつく。江戸時代後期の石仏は石の材質のせいか、風化が進んだものが多く、像容ははっきりしない。下の台は本来のものではないのだろうか、穴に無理やりいれこんだようで隙間がある。


青面金剛の足元は溶けかかっていてよくわからないが、どうやら邪鬼はいないようだ。近づいてよく見ると、穴の中の部分に三猿が彫られていた。


塔の左側面に造立年月日。右側面には天下泰平 國土安全。その下に七名の名前が刻まれている。

 

茶屋通り路傍 越谷市蒲生1-5


県道49号線、越谷方面から南に進み、蒲生本町交差点から斜め左に入ってゆく道は日光街道の旧道で「茶屋通り」と呼ばれる。交差点から300mほど歩くと道路左側の角の所に小堂があり、二基の石塔が並んでいた。


左 不動明王立像 享保13(1728)大きな角柱型の石塔の正面に「是より大さがミ道」上部に不動明王立像。大相模不動(大聖寺)への道を示す道標である。


燃え盛る火炎の光背の前、口をへの字に結んだ不動明王は剣と羂索を手にして岩座に立つ。


塔の右側面に造立年月日。バランスの良い美しい字は読みやすい。


左側面 中央に大きな字で「江戸新乗物町講中」新乗物町は現在の日本橋堀留町の旧名。当時の大相模不動の隆盛ぶりをうかがうことができる。そのまわりには小さな字で多くの人の名前が刻まれていた。


右 庚申塔 正徳3(1713)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。青面金剛の右脇に「奉建立庚申待講結衆二世安樂」左脇に造立年月日。塔の両側面の下部にそれぞれ13名、合わせて26名の名前が刻まれている。


ムッとした正面向きの邪鬼の顔。頭の脇から両手が生えているようで面白い。三猿は両脇に二匹の猿が前のめりに、なにか嘆き悲しんでいるような様子。この邪鬼と三猿は次に紹介する愛宕町第二会館の正徳元年の庚申塔とよく似ている。

 

愛宕町第二会館 越谷市蒲生愛宕町1


綾瀬川橋を越えた先で綾瀬川左岸の土手の遊歩道に入り100mほど行くと、土手の左下に蒲生愛宕町第二会館があり、その前に三基の石塔が並んでいた。この土手上の道あたりが、当時の慈恩寺に通ずる岩槻道だったらしい。


右 庚申塔 正徳元年(1711)凝った彫りの唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


しかめつらした青面金剛の右脇「奉供養講悪心講結衆」左脇に「為二世安樂祈所敬白願主」


足の両脇に薄く彫られた二鶏がかわいい。足元に正面向きで腕を張る邪鬼。その下に大きな三猿。両脇の猿が体を幾分前に倒して座っていて、なにか悩んでいるような、嘆き悲しんでいるような雰囲気。三猿の下の部分には12名の名前が刻まれていた。


塔の左側面の下部に造立年月日。右側面の下部、武蔵國埼玉郡八條領茂生村。「茂生」=「蒲生」だろうか?


中央 道標 延宝5(1677)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「これよりぢおんじミち 四里」塔の上の観音菩薩像には寛保4(1744)の銘があり、あとから載せられたもののようだ。


塔の裏面中央 梵字「サ」の下に「奉興立石一基」右脇に造立年月日、左脇に施主四百三十人。道標の造立に施主430人はあまりにも多く、しかも上部に観音菩薩を表す梵字「サ」があることから、延宝5年の造立時から観音菩薩坐像が塔の上に祀られていたものと考えられる。70年が経過して何らかの事情で観音菩薩像が破損して寛保4年に二代目?として現在の観音菩薩像が再建されたのではないだろうか。となるとこの石塔は「観音菩薩像付き道標」というよりも「道標付き観音菩薩坐像」と考えるべきか。


左 塞神塔。銘が無く、造立年月日など詳細は不明。細長い自然石の正面に「塞神」病気や悪霊などが村に入ってくるのを防ぐ神を祀った「塞神塔」は他の地域ではあまり見かけることはないが、あとで紹介するように、越谷の大相模地区でこのような塞神塔を多く見ることができた。これも地域性というものなのだろう。

 

一里塚の遊歩道脇 越谷市蒲生愛宕町11


茶屋通りをさらに南に向かって進んでゆくとやがて綾瀬川の蒲生大橋のたもとに出る。橋を渡ると草加市。この橋の手前左手に埼玉県内の日光街道筋に現存する唯一の一里塚「蒲生の一里塚」がある。周辺の土手の上は遊歩道になっていてその遊歩道の脇、階段を下りたところに石塔が並んでいた。


多くの石仏には写真のような赤い前掛けが掛けられていて銘を見るにはめくってみるしかない。遊歩道には散歩する人も多く、前掛けを外して写真を撮ることもできなかった。左端には表面が溶けだした地蔵菩薩立像が隣の石塔に寄り掛かるように立っている。銘などは確認できず詳細は不明。隣の板碑型の石塔は光明真言供養塔 元禄3(1690)上部に阿弥陀三尊種子。中央に「奉唱光明真言七百五十遍二世安樂所」両脇に造立年月日。右下に蒲生村。左下に本願とあり一名の名前。さらに結衆廿三人と刻まれていた。


続いて六地蔵菩薩立像 享保5(1720)左端の地蔵像の光背右脇に造立年月日。二番目の地蔵像の光背右脇「奉造立念佛講中二世安樂」右から二番目の地蔵像の光背右下に施主同行三十人と刻まれている。


その隣 不動明王坐像 宝暦9(1759)惜しくも顔が溶けかかっている。炎の光背の中、ちょうど不動明王の頭の上の位置に鳥がはっきりと見える。炎を吐く神鳥カルラか?光背裏に「奉供養十三佛拝一万度為二世安樂也」さらに造立年月日が刻まれていた。


続いて十三仏供養塔 宝暦9(1759)角柱型の石塔の正面 「奉供養十三佛拝一万度為二世安樂也」隣の不動明王像の光背裏の銘と全く同じだ。造立年も同一で、二つをセットで考えると、この石塔の上に不動妙造が載せられていたということかもしれない。


塔の両側面にはひらがなの名前が数多く刻まれている。


右端 成田山供養塔 安政4(1857)角柱型の石塔の正面 日月雲「成田山」塔の右側面に造立年月日。その下に久左エ門新田とあり、願主一名、世話人二名の名前が刻まれていた。


左側面には大きく是より八條へ壱リ、流山へ二里と刻まれている。越谷は日光街道、大相模不動への不動道なども通り、江戸時代においても交通の発達した地域だったために、自然と道標も多いのだろう。

 

南町共同墓地 越谷市蒲生南町14-1


草加市のほうから蒲生大橋を渡って直進、一つ目の信号交差点を右折して東へ向かい400mほど先を左折、すぐ先を右折して一方通行の細い道に入ると、右手の住宅の間に墓地があった。住宅街の真ん中でもありなかなか見つけにくい。ここからあと少し東へ行くと県道115号線 草加産業道路に出る。


墓地の西側に比較的新しい堂宇があり、その前に板碑型の石塔が立っていた。


釈迦如来坐像 寛文8(1668)下の台の正面に大きな蓮の花が彫りだされ、その下に「蒲生□堂□・・」の文字が見える。


塔は中央部分に断裂跡があるが、その上部に蓮台に座る釈迦如来像を線刻。彫りがかなり薄くなっているため近づいて見ないとなにが彫られているのかよくわからない。両脇には造立年月日が刻まれていた。


その下、塔の中央に三猿が線刻されている。頭部のあたりを断裂の補修跡が横切り、三匹とも言わ猿に見えてしまう。下部には10名ほどの名前が刻まれているが不鮮明で一部読み取れないものもあった。その他に「庚申」などの銘は見当たらず、三猿=庚申塔と言い切るのもちょっと勇気がいるが、あるいは釈迦如来を主尊とする庚申塔ということになるのかもしれない。


墓地の東側の奥には小堂が立ち、中に何体かの石地蔵が祀られ、その後ろに無縁仏が集められていた。


小堂の中、前に丸彫りの小型の六地蔵菩薩立像。いずれも首に補修跡が残っている。紀年銘は確認できず詳細は不明。


後に地蔵菩薩立像 寛文7(1667)舟形の光背の上部に梵字「カ」その下に錫杖と宝珠をもった地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇に「十月念佛結衆為頓証菩提也」左脇に青蓮社久譽心傳和尚 敬白と刻まれていた。


光背裏の中央に「乃至法界平等利益」とあり、その両脇に造立年月日が刻まれている。

道沼八幡神社 越谷市南町2-23-8


県道115号線 草加産業道路、越谷市に入ってから少し行くと斜め左に入ってゆく道がある。北西方向にまっすぐに続くこの道はやがて光明院のあたりで緩やかにカーブしながら登戸方面に向かう。調べてみるとこの道が大相模不動に至る「不動道」の古道だったらしい。産業道路の分岐から300mほど先、道路右側に稲荷神社がある。参道の右側、境内の隅のブロック塀の前に二基の力石を挟む形で三基の石塔が並んでいた。


右 弁財天。上部が剥落した自然石の正面に「財天」の文字が残る。紀年銘は見当たらず詳細不明。


中央 庚申塔 正徳4(1714)舟型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。塔全体を300年分の白カビ?が覆っている。


近寄って見てやっと様子がわかる。足元の邪鬼は岩の陰から顔と腕、下半身は折り曲げた片足だけを出していた。二鶏は見当たらず三猿だけが彫られている。


塔の左側面は無銘。右側面中央に「奉供養庚申講中為二世安樂攸」両脇には造立年月日が刻まれていた。


左 庚申塔 元禄8(1695)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


額に三番目の目を持つ三眼の青面金剛。光背の上部両脇に造立年月日。


光背の下部に「奉納」とあり6名の名前が刻まれている。足元の邪鬼は貧弱な手足を折り曲げて力なく横たわっていた。今まで見てきた中でもこれほど情けない邪鬼は珍しい。ユニークと言えばユニークだ。三猿は大きめ。両脇の猿が内を向いて背を丸めて座っている。

 

光明院閻魔堂墓地 越谷市蒲生2-10


南町の道沼八幡神社からまっすぐ北西へ500mほど進むと道は緩やかに右へカーブする。そのカーブのところ、道路右側に光明院閻魔堂墓地があった。入り口近くに六地蔵の小堂が立っている。


六地蔵菩薩立像 文政12(1829)六体のお地蔵様は台の感じと体のサイズはほぼ似通っているのだが、石の質感が微妙に違う。両脇の二体はやや色が黒く硬い石のように思われる。また写真でもわかるように、丸彫りのためにいずれも頭部が補修されたものらしく、顔の表情に統一感はない。左から三番目の特に異質な顔立ちのお地蔵様の袖の端に紀年銘があり、他のお地蔵さまは無銘。造立年に開きがあるのかもしれない。


小堂の左脇に六地蔵供養塔 宝永2(1705)駒型の石塔の正面 梵字「キリーク」の下「奉造立六地蔵尊念佛講結衆二世安樂所」両脇に造立年月日。右下に光明院住法印秀慶、左下に願主覺清敬白。小堂の中の六地蔵像の中の一体には文政2年の銘があったが、その他のお地蔵様、特に両脇のやや色黒のお地蔵さまがこの宝永2年造立の六地蔵かもしれないと思うのだがどうだろう?


塔の両側面と裏面、三面びっしりと、漢字の名前、おまん、おひさなど、ひらがなの名前、覺照、浄性など僧名、合わせて200名ほどの名前が刻まれていた。

光明院 越谷市蒲生2-1


閻魔堂墓地から北へ少し歩くと光明院の山門の前に出る。山門の右側は駐車できるような広いスペースになっていて、その片隅に大きな基壇を持つ角柱型の石塔が立っていた。写真右手前、敷地の隅にも舟形の石塔が見える。


巡礼供養塔 明治36(1903)石塔の上に載っているのは弘法大師の坐像のようだ。塔の正面、梵字「ア」の下「四國西國秩父坂東 新四國八十八箇所 巡拝供養塔」多くの霊場を巡礼した記念の造塔ということだろう。


塔の左側面には、右上 一番 西新井 総持寺から始まって四十三番 尾ヶ崎 正福寺まで、続いて右側面に四十四番 笹久保 寶蔵寺から八十八番 慈林 慈林寺まで、越谷、岩槻、川口、草加など広い範囲のお寺の名前が刻まれている。塔の裏面に造立年月日。さらに世話人15名の名前が刻まれていた。


墓地には本堂の左脇から入ってゆくが、本堂の裏を通って本堂の右奥まで、墓地は本堂をぐるっと囲むように広がっている。右奥のブロック塀の前にたくさんの無縁仏が集められていた。


中央右側後ろの段に馬頭観音立像 元文5(1740)残念ながら上半身しか見ることはできない。舟形光背上部に梵字「カン」その下に三面六臂の馬頭観音。正面の顔はつぶれている。光背右に「奉供養」左脇に「普門品讀誦」確認はできなかったが下部には造立年月日が刻まれているという。


横から見ると明らかな忿怒相。頭上の馬頭もはっきりと彫られていた。


塀外に立っていたのは聖観音菩薩立像 宝永6(1709)舟形光背、梵字「サ」の下に聖観音菩薩立像を浮き彫り。像も銘も風化のためにあまりはっきりしない。光背右脇に貞壽信尼 霊位。左脇に造立年月日が刻まれている。


県道380号線蒲生三丁目交差点西路傍 越谷市蒲生3-16


光明院の前の道を道なりに北東方向に進むとやがて県道380号線を横切る。この交差点を右折すると県道380号線と産業道路の交差点「蒲生三丁目交差点」になる。直進すると、その先、道路左側に庚申塔が立っていた。以前来たときは古かった雨除けが、いつのまにか新しくきれいになっている。


庚申塔 宝永4(1707)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面を凝った形に彫りくぼめた中、梵字「キリーク」の下 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。多少白い部分も見られるが、大事に扱われてきたのだろう、美しい状態を保つ。厳しい顔をした青面金剛。足の両脇に二鶏を半浮彫。邪鬼は青面金剛と同じような厳しい顔で正面をにらみつける。その下の大きな三猿まで、シンメトリックでバランスがとれた構図になっている。


塔の両側面にそれぞれ8名、合わせて16名の名前。裏面の中央「奉供養庚申講結衆為二世安樂祈攸」両脇に造立年月日。左下に願主敬白と刻まれていた。